社会臨床ニュース第34号 1999年3月28日 発行◆日本社会臨床学会 〒310 茨城県水戸市文京2-1-1茨城大学教育学部情報教育講座林研究室 E-Mail:nhayashi@mito.ipc.ibaraki.ac.jp TEL:029-228-8314 FAX:029-228-8314 郵便振替:00170-9-707357 銀行:あさひ銀行花畑支店(普通)472-1032602 日本社会臨床学会 第7回総会のご案内 日程:1999年4月24日(土)・25日(日) 会場:江東区森下文化センター 会費:2000円(交流会費3000円) 開催にあたって 総会実行委員長 平井 秀典(江東区塩浜福祉園) 今年の第7回社会臨床学会の総会は、設立総会の時と同じ会場で開催することとなりました。そして、実行委員長も同じく私が引き受けることとなりました。このパターンだと代わりばえがしないからやめよう、と異議を唱えたのは私一人であったことを一応申し添えておきます。 今総会は、例年に比してかなり変更点が多いものとなりました。 まず、総会のタイトルがありません。全体のテーマ的なものを見いだすことも、時代状況を的確に一文で表現することもどちらも難しかった、と言うよりも、今年はシンプルにいこうというのが学会運営委員会の本音かもしれません。 また、記念講演も行いません。これは、シンポジウムの討論時間を十分に確保するためです。討論時間がいつも足りない、と不満に思われている方も多いのではないかと考え、十分に時間をかけようと大ナタを振るいました。 分科会形式をとる総会が続いていたのですが、今回は2つの全体会にしました。教育と医療の大状況を全体で語り合うことにより、今の時代を生きる私たちの羅針盤ともなれるような議論ができたらと思っています。 多くの方の参加をお待ちしています。会員ではない方でもお気軽にご参加下さい。 タイムスケジュール 4月24日(土)10:00〜12:00 定期総会 第「期運営委員の選出、第。期運営委員会総括、会計報告など 13:00〜17:30 シンポジウムI いま、学校・教育はどうなっているか 18:00〜20:00 交流会 4月25日(日)10:00〜12:00、13:00〜16:00 シンポジウムII 先端医療の中の自己決定権とカウンセリングを考える シンポジウムI いま、学校・教育はどうなっているか 教育や養育の問題は、世代継承といった側面から考えると極めて「社会形成」にとって重要な問題で、どの様な教育体制が行われるかによって社会体制が決定されるという意味合いも含まれています。これまで、学校教育についての検討は、不登校問題や障害児問題を中心にして問題点を明らかにしてきたわけですが、今回は、生涯学習(社会教育)、大学までを含めて、いま学校や教育の場で何が起こっているのか、何が問題なのかをトータルに見つめながら、そこに共通する問題を明らかにしたいと考えています。教育問題を問うということは、結局、社会とか経済の問題を問うことにも繋がり、「教育の商品化」といったテーマとも重なってくると考えられます。 現在、学校荒廃の問題や、日本の経済活力の問題もからんで「教育改革」も進行中です。学校と急激な変化をとげている社会とのずれが明確になっている今日、学校の意味づけが問われていると思います。現代における学校・教育を社会構造の分析を通して考察してみたいと思います。 発 題 赤田 圭亮(神奈川県中学校教員) 中学校の現場にこだわりつつ 佐々木 賢(日本心理センター) 世界の学校の荒れをめぐって 中島 浩籌(YMCA高等学院) 生涯学習社会への疑問 加藤 彰彦(横浜市立大学) 自由競争社会と大学 司 会 小沢 牧子(和光大学) 武田 利邦(神奈川県高校教員) 赤田 圭亮 「中学校の現場にこだわりつつ」 私は、教員生活のほとんどを横浜学校労働者組合という教員の少数組合を基盤としてきました。ですから、学校という場や教育という行為を教員の労働という視点と併せて考える習性があります。子どもの変容や親の変容と言われる現象を前に、教員の働き方と意識がどう変わってきたのか。厳しい批判に晒されてきた教員がどんな風に社会と断絶し、またつながっているのか。教員として教育に向かい合うときのスタンスの元となっているのは何なのか。そんなことを考えてきました。必ずしも私は、教育否定論者ではありません。もちろん熱心な教員でもありません。ありていに言えば、身過ぎ世過ぎのひとつとして、自分が干からびない程度に、思春期の生徒と時間が共有できれば良いのではないかと考えてきました。しかし、そうするためには、越えなければならないハードルがたくさんあることに気がつきました。そのハードルを突き詰めることが、現在の教育のあり方を考えていく上で、意味を持っているのではないか、と考えてきました。 佐々木 賢 「世界の学校の荒れをめぐって」 今世界の各国で教育改革がはやっている。だが米英では自由主義教育に批判的になり、日本とは逆の方向に進みつつある。つまり、自由と厳格の間で右往左往するだけで、学校の荒れに対しては効果がないようだ。 最近では先進国の他に、中国・韓国・マレーシアの校内暴力が伝えられ、ポーランドでは少年犯罪の凶悪化が問われ、パレスチナでは攻撃的な子どもが増え、ヨルダン・エチオピア・南アやマラウイでも校内暴力対策に大童であるという。 近代に始まる教育のシステム機能が麻痺し始めたに違いない。とすれば以下の問題を考えねばならない。@教育大衆化=学歴資格の目減り。A個人化の進展と欲望の肥大化。B世界的規模での社会構造の集権化。C知の浮遊化=技術の下方分化・生活の電化電子化。D情報大衆化=テレビ携帯電話→学校形骸化と階層隠蔽の不可能性。E大人と子どもの関係変化=家族機能の低下。 中島 浩籌 「生涯学習社会への疑問」 「教育改革」という言葉が様々な所で使われています。行政も、行政を批判する側もこの言葉を多用しています。内容もいろいろで、ナショナリズム的なものもあれば市場原理導入的なものもあり、管理的でない教育をめざそうとするものもあります。いずれにせよ、より良い教育を求めるという視点でこの言葉は使われています。今の学校制度はひどいが、教育には可能性があるということなのでしょう。 文部省が実行している「生涯学習社会への移行」もそうです。生涯学習は、学校の役割を縮小し、学校の外へ教育を広げていくというものです。学校の中だけで教育を受け、学齢期だけで学ぶといったシステムから「いつでも、どこでも」学べるシステムへ移行していこうとするものですから、教育を今以上に社会に浸透させていこうとするものです。 では、学校教育はダメだが、教育には可能性があると言ってしまってよいのでしょうか。私は大検予備校など学校の外で教育にかかわっていますが、そこの経験を通してこの問題を考えていきたいと思います。 加藤 彰彦 「自由競争社会と大学」 現在、大学では「小子化」をめぐって、大学入学者の減少という現実を迎え、各大学とも生き残りをかけて、さまざまな対策にしのぎを削っています。 学生や親が何を大学に求めているのか、そのニーズをどのように把握し、実現するのかという課題が大学では求められています。また、大学審議会の答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について」(1999年1月)のサブタイトルは「競争的環境の中で個性が輝く大学」となっています。効果と能率を基準として大学と教員のリストラも始まりました。自己点検・自己評価が各大学で取り組まれ、学生による教員の評価も行われるようになりました。さらに、入学してくる学生にとっても大学で学ぶ意味が変化してきているようにも思えます就職や資格の問題が重要な判断基準になったり、設備や雰囲気が重要な問題にもなってもいます。大学や卒業資格が商品化している状況の中で、大学教員8年目を迎える元小学校教師の思いを語りたいと思います。 シンポジウムII 先端医療の中の自己決定権とカウンセリングを考える 私たちは、老若男女などさまざまな関係の中で、生老病死の種々相を生きていますが、今日では、そのような暮らしの多くの部分が、先端医学・医療の世界に包み込まれてしまっています。 その中で、着床前診断・胎児診断、脳死・臓器移植、遺伝子診断・治療、尊厳死・安楽死などの主張がなされ、それらは実験されたり、実行されたりしています。そして、それらの問題や矛盾も噴出しています。 私たちの学会は、日本臨床心理学会改革時代以来、「早期発見・治療はなぜ問題か」と問い合いながら、本学会創設以後では、脳死・臓器移植の考え方と合法化に批判的発言を重ねてきました。 最近では、臓器移植法が原則として掲げている「本人意思の尊重」(「自己決定権」の擁護)に問題がないのかと語り合ってきましたが、世間では、この擁護のためのカウンセリングの充実と制度化も提唱されています。 今回は、「自己決定権とカウンセリング」の問題に焦点をあてながら、先端医療の諸問題を解明し、共々に語り合いたいと願っています。 発 題 福本 英子(フリーライター) 生命技術社会の現状を考える 篠原 睦治(和光大学) アメリカの最近事情を探る 玉井 真理子(信州大学医療短期大学部) 遺伝カウンセリングの現場から考える 竹内 章郎(岐阜大学) 自己決定論と生命倫理学の現在を考える 司 会 三輪 寿二(東京足立病院) 林 延哉(社会臨床学会運営委員) 福本 英子 「生命技術社会の現状を考える」 二十余年前、遺伝子組換え技術が作り出されたことを知って、途方もなくうさん臭いと思ったのが、ことの始まりで、以来、進行する生命技術社会の正体をつかみたいという“野望”を抱えて今に至っている。DNA問題研究会活動に参加しながら、ジャーナリズムの末端で、日々の糧を得てきたフリーライターだが、ただ今、遺伝子治療と「ヒト」組織利用の動きを取材中で、ES細胞についても近く調べを始める予定。医療は、先端生命技術を導入して急速に産業化し、産業に組み込まれ始めている。それによって医療の概念が野放図に拡大され、人の資源化、製品化が進んでいる。その構図の中で医療の側から保障される「自己決定権」とは何なのか、「カウンセリング」とは何なのか、と考えてみているところである。 著書:『生命操作』(現代書館)、『生物医学時代の生と死』(技術と人間)、『生命操作事典』(共著、緑風出版)、『操られる生と死』(共著、小学館)など。 篠原 睦治 「アメリカの最近事情を探る」 ぼくは、70年代前半から「共生・共学」の願いと主張に繋がって発言を重ねてきたが、その中で、胎児診断、脳死・臓器移植、尊厳死・安楽死等の優生思想性に気づいてきた。ところで、養護学校義務化を批判しつつ提起された「親の学校選択権」も「どの子も地域の学校へ」と繋がらないと批判したのだが、昨今の「自己決定権」の主張にも、同様の問題を感じている。80年代当初より、アメリカの関連事情に関心を持ってきたが、上述の諸事態を肯定的に醸成する背景として個人至上主義などがあるように思われる。今回の発題では、「アメリカ最近事情」を素材に、「自己決定権とカウンセリング」に焦点をあてて論じたい。 著書:『障害児教育と人種問題』(現代書館)、『アメリカ合州国・1991年の夏』(自主出版)。論文:「いま、なぜ、カウンセリングを問うのか」(『和光大学人間関係学部紀要』3号)など。 玉井 真理子 「遺伝カウンセリングの現場から考える」 信州大学医療短期大学部教員、同大医学部付属病院遺伝子診療部カウンセラーだが、専門は心理学と生命倫理学。出生前診断と選択的人工妊娠中絶、障害新生児の選択的治療停止と親による治療拒否、遺伝子診断と遺伝カウンセリングなどを考えてきた。高校2年になるダウン症の子どもの親でもあるが、医療現場では、遺伝病をめぐる苦悩と向き合いつつ、遺伝カウンセラーとして修業中である。シンポジウムでは、遺伝病にまつわる相談事例などを交えて、クライアントとカウンセラー双方の悩みと葛藤をお話したいと思う。 著書:『今どき、障害児の母親物語』(ぶどう社)、『てのひらのなかの命』(ゆみる出版)、『障害児もいる家族物語』(学陽書房)、『街の中の出会いの場−お元気ママたちのふくしづくり』(ぶどう社)。論文:「出生前診断と自己決定」(『現代思想』1998年7月号) 竹内 章郎 「自己決定論と生命倫理学の現在を考える」 専攻は社会哲学だが、近代主義、新自由主義に対抗し得る現代平等論を、生死に直結した領域から広義の福祉に至る領域へまたがって構築したいと願っている。当日は、自己決定論に関する思想的・哲学的系譜に言及しながらも、主として、自己決定論における個人還元主義と自己責任偏重の問題を、私の主張する「能力の共同性」論と対比させつつ考えたい。こうした議論は、治療至上主義に対抗して、真のカウンセリングの中核にあるケアの論理の明示に接続し、さらに、「弱者」排除を強化しかねない現在の生命倫理学の軌道を修正することに繋がると考えている。 著書:『「弱者」の哲学』(大月書店)。論文:「「弱さ」の受容文化・社会のために」(『「近代」を問いなおす』所収、大月書店)、「個性の問題化のために」(『個性という幻想』所収、世織書房)、「責任概念の転換と生命倫理」(『生命倫理』通巻7号)、「相対主義的装いをまとう絶対主義の陥穽」(共著、『相対主義と現代世界』所収、青木書店)、「能力主義にもとずく差別の廃棄」(『哲学』49号)、「死ぬ権利はまだ正当化できない」(『岐阜大学地域科学部研究報告』14号) 社会臨床学会の出版物の宣伝 『他者への眼ざし〜「異文化」と「臨床」』 社会評論社 ¥2400+税 〈社会臨床シリーズ 影書房〉 第1巻『「開かれた病」への模索』 ¥2800+税 第2巻『学校カウンセリングと心理テストを問う』 ¥2800+税 第3巻『施設と街のはざまで〜「共に生きる」ということの現在いま』 ¥2800+税 第4巻『人間・臨床・社会』 ¥2800+税 〈近刊〉 『現代社会とカウンセリング』(仮題) 現代書館 今夏発売予定! 宿のご案内 森下文化センターの北側にはビジネスホテル街があります。 各自直接お申し込みください。 料金はシングル5〜6000円、ツイン10000〜12000円程度です。 ビジネスホテルK-inn (森下3-9-3、03-3633-3773) ホテルエドアイト (森下3-5-23、03-3631-7564) ホテルサン・モリシタ (森下3-6-2、03-3631-4311) 総会についての詳しいお問い合わせは ●総会実行委員長 平井秀典 ●表記学会事務局、または ●Email:hirai@mxk.mesh.ne.jp ●:03-3647-6987(9:00〜5:00) 日本社会臨床学会第III期運営委員会総括案 日本社会臨床学会運営委員会 1999年3月31日 これから述べる第III期(1997年4月〜1999年3月)総括案は、本学会運営委員会が企画、運営してきた諸活動を振り返りながら、第IV期に向けて、本学会の展望を探ろうとするものである。 本案は、4月24日の定期総会で提起されるものだが、当日は、本案にもとづく討論が活発になされることを期待している。なお、当日、本案を持参してくださると幸いである。学会員の皆さまの忌憚のないご意見と積極的なご協力をお願いしたい。なお、本総会は、公開されるものであり、どなたも参加し発言することができる。 I.諸活動の企画と運営 本学会の一切の活動は、学会運営委員会の討論と決定に基づくものだが、運営委員会は、第III期第1年度は8回、第2年度は7回、行っている。なお、第2年度の、運営委員会も兼ねた「夏の合宿」は台風のため中止した。 以下、第III期において学会内外に公開された諸活動を列挙する。 (1)第5回総会(会場、静岡・静岡大学) シンポジウムI 学校、塾、不登校を考える シンポジウムII バリア・フリー社会を考える シンポジウムIII 高齢化社会を考える 記念講演 学校化社会に見る大人たちのウソ 総会決議 脳死・臓器移植のいかなる合法化にも反対する (2)第6回「夏の合宿、第6回総会に向けて」 (3)学習会「脳死・臓器移植の深みへ」 (4)学習会「PTSDをどう考えるか」 (6)第6回総会(会場、東京・和光大学) 報告と討論 これまでの社臨・これからの社臨 トーク&コンサート 死と弔いの「意味」 分科会I 老いと介護をめぐって 分科会II 精神医療は改革されてきたのか 分科会III 学校と教育を解読する 分科会IV ボランティアをどう考えるか 分科会V 日本を生きる 記念講演 描くこと、書くこと、そして触ること 全体会 資格・専門性は必要か幻想か (7)学会誌『社会臨床雑誌』第5巻第1号〜第6巻第3号 (8)学会紙『社会臨床ニュース』第27号〜第34号 (9)学会名簿の発行 (10)上記(6)「報告と討論 これまでの社臨・これからの社臨」と関わって、学会第III期運営委員長文責の「これまでの社臨・これからの社臨」及び学会編集委員会作成の「日本社会臨床学会文献リスト」を発表している(学会誌第6巻第1号、以下、〇巻〇号と略す)。 上記(1)〜(10)からわかるように、第III期第2年度活動は、第6回総会の開催、学会誌・紙の発行に限定された。その弁明については、学会紙33号で述べたので、ここでは省略する。また、第7回総会までの刊行を約束した『現代社会とカウンセリング』(仮題)は急ぎ編集を進めており、夏前刊行をめざして努力中である。 なお、この際、学会創設年度(92年)から97年度までの「収入状況と納入会員数の変化」を表示する。本表によると、会員数は、創設時点と比して、近年になるにつれて倍増し、ここ数年は、350名前後になっている。ところで、二年以上の会費滞納者は、会則により、退会とみなしているが、申し出による退会もある。近年、退会者の減少数はわずかである一方で、加入者も多くなく、増減ほぼ同数の現状になっている。繰越金額は、ここ数年、20万〜30万円の間で推移しており、健全財政の印象を与えている。ただし、この事態は、これまで、総会時収入やマスコミ出版物の販売収入など、学会費以外の収入に大きく依存してきた。私たちは、学会活動を支える財源の内、学会費が占める割合がより大きくなることを願っているが、その意味でも、会員数の増加と学会費の確実な納入を期待している。会員の皆様のご理解とご協力をいただくと幸いである。(98年度の会計報告については、準備の都合で、定期総会で提示する) II.テーマと課題 今期に論じられたテーマと課題のうち、第1年度分に関しては、6巻2号で述べたが、ここでは、第2年度に継承、展開し、第6回総会で取り組み、第IV期運営委員会活動に繋げていきたいテーマと課題を述べる。 (1)国家資格化と消費社会の中の「資格・専門性」を考える 医療・福祉・教育に関わる多くの領域では、関連業務の効率化とサービス化に伴って、専門性の充実と、国家資格など資格の強化がいよいよ謳われている。その中で、近年、言語聴能士や精神保健福祉士の国家資格化が開始されたのだが、臨床心理士の国家資格化については、保留状態になっているようである。だが、一方で、日本臨床心理士資格認定協会による臨床心理士は増加しているし、そのための大学院設置は全国化しており、そこへの需要は高まっている。おそらく、今後、この臨床心理士が“基礎資格”的意味合いを持ちながら、種々の領域にわたって浸透していくと思われるが、例えば、スクール・カウンセリングの実施とその全国化に伴って、その影響力は既に大きくなっている。 このような事態で、今期前半の学会誌(5巻1号、3号)で、臨床心理士と精神保健福祉士の国家資格化を論じたが、第6回総会では、医療・福祉・教育の臨床現場から、横断的に「資格・専門性は必要か幻想か」を討論した(6巻3号)。そこでは、医療サービスの商品化とその質の保証としての資格・専門性という指摘がなされ、また、“資格・専門性を問いつつ、その渦中で働く”といった、矛盾や葛藤を引き受けた実践の模索も提起されている。 これらの資格化を問う本学会の主体的・実践的立場はいまだ明確にしえず、本学会は、資格化を問う際の“問われる”側との緊張関係を持ちにくい事態にある。それにしても、その取り組みの不十分さを思わないわけにはいかない。本学会の姿勢と性格(後述)からしても、私たちは、資格化状況の更なる分析と、そこに抗する批判的発言と実践的模索を重ねていくことを再自覚したい。 (2)「現代社会とカウンセリング」を考える 第II期で行った連続学習会を受けて、学会誌では、〈特集カウンセリング〉(5巻1号)を組んだが、そこでは、若者のカウンセリング志向、「心の商品化」問題、フェミニスト・カウンセリングやスクール・カウンセリングの現状と課題を論じた。以後、これらのテーマを含めて、「現代社会とカウンセリング」を論じる単行本の執筆と編集が進行している。 (3)「社臨シリーズ」第3巻『施設と街のはざまで』を討論する 「社臨シリーズ」全4巻の刊行(影書房)は、第II期中に実現し、本シリーズをめぐって読書会を重ねることができた。第III期になり、学会誌上で、『施設と街のはざまで』をめぐる読書会の報告とその後の討論がなされたが、主として「施設を改善する、開く」とはどういうことかが論じられた。すなわち、そのことによって、施設の隔離性を合理化し隠蔽してしまわないかという発言があったが、それに対して、そこからの出発を積極的に主張する施設労働者の発言などもなされている(5巻1号、2号)。 (4)「脳死・臓器移植」問題を考える 脳死・臓器移植の合法化を批判する発言は、その原理的問題を解明しつつ、第III期に入ってからも重ねてきたが、第5回総会では、いかなる合法化にも反対する総会決議を行った(5巻2号)。その後、臓器提供に関わる「本人意思の尊重」(死の自己決定権)をめぐって学習会や第6回総会で考えている(6巻1号、2号)。この文脈で、「先端医療における自己決定権とカウンセリングを考える」といったテーマへと広がり深まることを期待しているが、第7回総会シンポジウムでは、その試みを開始することになっている。 (5)学校と教育を解読する 「学校と教育」をめぐる議論は、障害児側から提起されてきた「どの子も地域の学校へ」と、登校拒否体験者側が語ってきた「学校教育のあり方を問う」とが、相互に納得できる接点を持ちえないまま、臨床心理学会改革時代以降、ずっとしつこく重ねられてきた。第5回総会では、塾やフリー・スクールの可能性を含めて、子どもたちの生きる場所を探った(5巻2号)。第6回総会分科会では、「学校と教育を解読する」ことを試みたが、学校=教育の歴史形成的な問題、個性化と選択の分断性などを語り合っている(6巻2号、3号)。第7回総会シンポジウムでは、この文脈で、現状分析を多面的に行いながら、また、学校の可能性を探りつつ、「いま、学校・教育はどうなっているか」を語り合うことになっている。 (6)精神医療改革を検証する 昨今、精神病院の開放と隔離は同時進行し、加えて、社会復帰の強調とともに地域精神医療が試行されつつある。つまり、精神医療は機能分化、多様化してきているのだが、その矛盾と課題は重畳してきている。第6回総会分科会では、「精神医療は改革されてきたのか」を語り合ったが、ここでも、精神医療「改革」は、経済効率と社会防衛に立つ保健・医療・福祉の再編に深く関わっているという認識が指摘された。一方で、「地域精神医療」の場における「出会いと関わり」が模索されていかなくてはならないし、そこに「する」側の実践課題があるという提起もなされている(5巻3号、6巻3号)。 (7)「コンピュータ化・情報化」を考える このことについての一連の議論については、第III期に入って、一旦、論点整理が行われたが(5巻2号)、その後、精神医療の現場からの発言があり、そこでは、「コンピュータ化・情報化」が人と人の直接的関係性を失わせること、効率・迅速を求める事態と関わっていること、したがって、この事態は資格・専門性の抱える問題にも連動していること等が指摘されている(6巻1号)。「コンピュータ化・情報化」の展開と普及は“日進月歩”の様相になっているが、こうして、この種の討論は、“暮らしの検証”という観点から重ねられていかなくてはならないし、(後述するが)本学会における「情報」の伝達と交換のあり方にも繋げ続けなくてはならない。 (8)「バリア・フリー社会」を考える このことについては、第5回総会で討論したままになっているが(5巻2号)、今日、「バリア・フリー社会をつくる」という課題は、高齢化社会、ノーマライゼーション、共生社会などの強調とともに、積極的に提言されている。第5回総会では、主として、生活環境における物理的障壁をテクニカル・エイドなど物理的補強で克服するということをめぐって論じられたが、昨今、「バリア」が、障害者に対する差別や偏見など精神的・心理的障壁に及んで言われることがある。 差別や偏見は関係論的、日常的に解かれるテーマでもあるのだが、とすると、これらを「バリア」と括って客体化してしまっていいのかという問題が生じる。第5回総会でも語り合われたことだが、今後、「バリア」を限りなく取り去ろうとする方向でいくのか、「バリア」ゆえに関係的に生きうるとする暮し方を探るのか、あるいは、それらのはざまを生きるのか等、バリア・フリー社会へと進行する実態の分析とともに、視点の検証がなされなくてはならない。 (9)「高齢化社会・老い・介護」を考える 第5回総会シンポジウムや第6回総会分科会などで、高齢化社会や老いの描き直し、介護のあり方などの議論を重ねてきた(5巻2号、6巻3号)。近く実施される公的介護保険制度が、地域や家族の日常生活の中で、どのように位置づくのかの議論は開始されたばかりである。これらのテーマは、家族、地域の人間関係の諸問題とともに解かれていくべき、現実的、状況的テーマである。第6回総会分科会では、このことについて語り合っているが、そこでは、「私」たちの生活の中で生起する介護の現実に「公」的援助が「共」にという視点からどのように関われるのかを、改めて討論すべき大きな課題として残している。 (10)「ボランティア」をめぐって考える この問題は、くすしくも「ボランティア」の義務化、有償化を提言する形で語りだされたが、その後、このことをめぐって議論が継続している(5巻3号、6巻2号)。第6回総会では、「ボランティアをどう考えるか」の分科会を持った(6巻2号)のだが、そこでは、自発性、無償制など、“あるべき”ボランティア論に加えて、“国家・社会の要請としての”ボランティアをめぐる批判的分析が開始されている。 (12)らい予防法廃止問題を考える 本紙でも、らい予防法が廃止されたにもかかわらず(1996年4月)、国民健康保険の任意加入すら認められない等、「今なお、生きつづけるらい予防法」の実態が報告され、それに伴う署名要請もなされた(『社臨ニュース』26、28〜30号)。昨年7月以降、熊本、鹿児島など全国各地で、「強制隔離・拘束」に対する「国の責任」を問う裁判が開始されているが、その折りだけに、このような訴えは今日性を持っているし、今後、裁判の経過に着目しつつ、私たちの課題を探っていく。 (13)「PTSD」問題を考える 阪神・淡路大震災、神戸の小学生連続殺傷事件等を契機に、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が、被害者の擁護という観点から肯定的に語られている。そのための「こころのケア」や「こころの専門家(カウンセラー)」の必要性も言われている。この問題については、学習会を持っているが、しかし、これも病名診断ではないか、ラベリング問題はないのか等の疑問が幾つか提起されている(6巻1号)。『現代社会とカウンセリング』(仮題)でも論じるが、この概念はこれからも流行っていく勢いにあるので、その中で進行するかもしれない事態に注目しながら、この問題をさらに考えたい。 (14)「異文化」問題を考える 国際化という言葉が流行し、文部省も国際理解教育を打ち出しているが、この問題をどのように批判的に考えるかは、私たちの課題である。第2回総会でも、この問題は討議され(学会編『他者への眼ざし−「異文化」と「臨床」』)、最近では、「英語教育」改革問題と関わって論じられている(5巻3号)。さらに、第6回総会分科会では、「日本を生きる」というテーマで議論している(6巻3号)。今日、「日本」という場でさまざまな文化を持つ人々が生きているのだが、そこで起こっている「異文化間の葛藤と共存」の問題を今後とも考え続けたい。 以上、幾つかのテーマと課題を整理したが、この他に、学会誌・紙には、上記テーマにつながる論文やエッセイを発表してきた。なかでも、渋谷典子さんの「義肢装具の社会学的考察」は〈その4〉(6巻3号)を迎えている。 以上で見てきたように、私たちが関心を寄せてきたテーマと課題は多く、その全てにとりくみきれているとは言えない。とはいえ、私たちは、“いま、ここ”の「臨床」や「暮らし」の中で気づき格闘している、医療・福祉・教育などに関わる諸問題を折々に掘り起こし寄せ集めながら、時代や状況を重ね合わせて、解こうとしてきた。いま、そこに、より根源的な共通のテーマと課題があることを明示することは困難であるし、また、そのことは緊急な作業とも思われない。本学会の幾つもの場を大切にしながら、いろいろな領域と立場の人々が共に考えつづけることで、私たちのテーマと課題はいよいよ拡散するかもしれないが、やがて、それらに貫流する核心にも迫りうるだろうと期待している。 III.本学会の姿勢と性格 ここでは、すぐ上で述べたことと関わるが、学会創設以来6年が経ったいま、振り返って、私たちは本学会の姿勢と性格をどのように形づくってきたか、また、いきたいかを述べる。 この際、学会会則を想起しておきたいが、そこには、「本学会は、社会・文化のなかで『臨床』という営為を点検、考察し、さらに、そのあり方を模索することを目的とする。いまの時代を生きる人間の悩みや想い、その背後にある社会の矛盾や問題を、既成の枠組みやその方法にとらわれず、さまざまな領域、さまざまな立場の人々が共に自由に考える場となることをめざす」(3条)とある。 私たちは、ここ数年、「情報化社会」、「高齢化社会」、「消費社会」、「生涯学習社会」などと、折々の文脈の中で規定され意識させられる「いまの時代や社会」のなかで、それらの現状を描き、それらの問題と課題を発掘し解こうとしてきたのだが、そのような作業の場は、無制限に広く設定されてきたのではなく、ある限定を設ける意図と結果になっている。 つまり、私たちは、日本臨床心理学会改革の継承と展開を願って、本学会創設以来、臨床心理学・心理臨床の分野・領域に依然として強い関心を寄せながらも、もはや、そこに留まらず、医療・福祉・教育と各々の周辺領域にまで広げて、「いまの時代・社会」における「臨床」という営為の点検とあり方に焦点をあてて考えてきた。なお、この際、「臨床」という用語は、「する」側の「される」側に対する(資格・専門性に囲まれた)行為を軸に、「暮らし」や「現場」に臨み関わる行為を広範かつ曖昧に包括する表現として使うこととする。 私たちは、「臨床」の点検とあり方の模索が、それぞれの分野に従事する者たちのみによってなされうるとは考えない。その作業は、「する」側と「される」側の相互討論によってもなされるし、(その関係を含んだ)いろいろな立場と領域の人々による共同の行為でもありたいと願っている。 言うまでもなく、「人間の悩みや想い」の場は、国や社会の現状、法体制や行政のあり方等にも規定され翻弄されたりしている。したがって、これらに対する問い掛けも持続してきた。それにしても、医療・福祉・教育の分野を軸に、それらの「現場」や「暮らし」で気づき悩んできた事々から出発し、それらを解こうとする意欲と展望を持って、法・行政の現状や法制化・行政化に対する問いを発しなくてはならないと考える。 こうして、私たちは、「いまの時代を生きる人間の悩みや想い」を分かち合い解決しようとする際に、個々人の心身のリアリティに想いを寄せつつも、個人還元主義・心理還元主義に陥ることなく、また、社会還元主義・体制還元主義の弊害にも気づいて、その両側を往還しながら、「いまの時代を生きる人間の悩みや想い」を、上述の場や関係の中で、力動的、包括的に、そして共同で解こうとする姿勢と方法を探りつづけたいと願っている。それは、既成の知識・技術、そして、学問や思想のあり方を学びつつも、絶え間なく捉え直す自己点検、相互点検の作業を伴うものである。 そのために、私たちは、各自が関与する領域にこだわりつつ、そこでの問題と課題を表現しながら、他分野、他領域、「する」側、「される」側など、相互に異なるいろいろな人々との自由で率直な討論を不可欠なこととして大切にしていきたい。本学会は、そのための場を積極的に作り上げていきたいし、今日までも、不十分ながら、その模索を重ねてきたと思っている。 IV.本学会のあり方に関わる課題 上記「本学会の姿勢と性格」を形づくっていく一環として、第III期運営委員会は、とりあえず、次の三点に関して議論を開始している。今定期総会でも、会員の皆さまのご意見をうかがえればと願っている。 (1)学会誌・紙をマスコミ・ルートに乗せることはどうか この件は、マスコミ・ルートに乗せることで読者を広範に獲得し、いろいろな立場、領域の人々の多角的な問題提起を受け、一緒に考える場を拡大し深化するという期待と展望の中で発想されたものである。また、編集、印刷、発送など一切の発行作業を、運営委員会内ですべて負うことに限界を感じ出しているという率直な事情もある。 このことによって、“雑誌の商品化”に伴って生じる幾つかの規制や、本学会自身が負う大きな財源の確保等、いくつかのリスクを負うことになるかもしれない。とはいえ、このようなリスクを引きずることになるにしても、商売のことなど世俗の論理とせめぎあいつつ、「いまの時代・社会」に問題提起する、内容豊かな雑誌を創り出して広く流布する、大きな契機にできないかと考えだしたばかりである。 (2)本学会ののホームページを開設してはどうか 運営委員会は、ホームページ開設をめぐっては折々に討論してきたが、ホームページを利用できる人とできない人の、情報に関する不平等が生じる等の理由から、この実施に慎重であった。特に、(既述したが)コンピュータ化・情報化については、学会のあり方とも関わって議論している折りでもあり、保留のままになっている。 一方で、一般的に言って、インターネットの普及とホームページの開設は日常化してきており、このことによる情宣と情報の交換は多くの人々によってなされている。そのような状況のなかで、私たちも、ホームページを開設する便宜を考慮する段階に来ている。運営委員会は、情宣の役割に限定して、暫定的、試験的に、ホームページを開設することにし、そこに生じる諸問題については、折々に討論したいと考えている。 (3)日本学術会議に参加する件をどう考えるか この問いを立てる最大の理由は、社会臨床学会が「学会」として発足し、そのように名乗りつづけている事情と関わっている。その事情とは、臨床心理学会から心理臨床学会が生まれ、その後に、臨床心理学会から脱退した人々が呼び掛けて、臨床心理学会改革の姿勢と方法を継承、展開する「社会臨床学会」を創設したことである。私たちは、三者の歴史的経過と現状の絡み合いを睨みながら、社会臨床学会も「学会」でありつづける自覚と役割を持たなくてはならないのだが、学術会議参加の件は、この経過上、そして、日本の中で「学会」であろうとする限り、避けて通れない問題である。 ところで、本学会が学術会議参加を申請する一つの条件には、会員の過半数が「科学者」である必要がある。ここでの「科学者」とは、「本学会の姿勢と性格」を満たす者であればよいようだが、それにしても、医療・福祉・教育及び関連領域に従事する研究者、臨床家、実践家などが軸にならざるをえないだろうし、“その他の”会員が生じる事態は避けられない。 運営委員会は、この参加条件をうまく満たしているかの現状分析に留まらず、それを満たして参加することで学会内階層化などの問題が生じないかの討論をしている。いずれにしろ、「資格・専門性を問う」学会のあり方と関わって、今後とも、学術会議参加問題を考えながら、“いま、ここ”では、既述の「本学会の姿勢と性格」を実質的、具体的に形づくっていく共同の営為を重ねていく必要性を確認している。 V.第IV期運営委員会に向けて 第IV期運営委員会は、上記II〜IVで述べたテーマと課題を引き受けて出発することを願っているが、以下に、具体的プログラムを列挙する。 (1)上記II〜IVで述べたテーマと課題に関わる論文、エッセイ、報告を発掘して、学会誌・紙や総会、学習会などで発表し、討論を重ねる。 (2)そのうち、第7回総会では、二つのシンポジウム「いま、学校・教育はどうなっているか」と「先端医療の中の自己決定権とカウンセリングを考える」を軸に考える。 (3)『現代社会とカウンセリング』(仮題、現代書館)を刊行して、これをテキストとしながら、学習会や誌上討論を行う。 (4)第7回定期総会の場を含めて、運営委員会内外で、上記IVで述べた3件など、「学会のあり方に関する課題」をめぐって、討論をし納得できるものから順に実行に移していく。 (5)諸活動の情宣や入会のお誘いを積極的に行うことで、いろいろな立場、領域の人々を迎え、既述のテーマと課題に関わる情報の交換と意見の交流を豊かにする。その結果として、会員の増加と財政の安定をはかる。 (6)その他。 運営委員立候補声明 日本社会臨床学会選挙管理委員会 寄せられた第IV期運営委員への立候補者の声明を掲載します。 運営委員立候補声明 赤松 晶子(東京足立病院) なかなか運営委員会に出席できない状況が続いて、その責を十分に果たし得ず、今回、立候補してもまた出席できないかもしれず、これではむしろ周囲に申し訳なく思うばかりで、ずいぶんと悩み、迷いました。 時の流れの中で、社臨も少しづつ変わってきているのではないだろうか、との想いもありながら、けれど「障害者」の生きる状況のしんどさは同じようにずっとあり続けていることを想います。そんなことを考えながら、医療現場の中で感じ考えるにあたって社臨3期は、仕事の関係で、途中からあまり運営委員会に参加できないままになっていました。第4期になっても同じ仕事状況のなかで、どれぐらいのことができるか、心もとないことになりそうな気もして、少し迷いましたが、社臨との関係も大切にしていきたいということで、今期も立候補することにしました。よろしくお願いします。 運営委員立候補声明 飯島 勤 「情けない立候補声明ですが‥‥」 前期、前々期と、運営委員をしてきました。前々期は、会議や発送作業にも、ほとんど行けたのですが、前期はあまり行けませんでした。 それでは、運営委員の役目が果たせないのではないかと思い、今期は立候補するつもりがありませんでした。「まあなんとか続けてくれないか」という声も有り、重い腰をまた上げてしまいました。 というわけで、情けない立候補声明です。十分なことができませんが、できる範囲でよいというのであれば、一生懸命やるつもりです。「それでよければ、信任していただきたい」と言うしかありません。 本学会の取り組みについては、今のところ著しい問題は起きていませんが、今後はいろんなことに直面するでしょう。ともかく、「既成の学問の枠組みやその方法にとらわれず、さまざまな領域、さまざまな立場の人々が自由に考える場となることをめざす」という、設立の趣旨を大切にしながら、努力したいと思います。 運営委員立候補声明 小沢 牧子(和光大学) 脳死・臓器移植問題をみても、学校カウンセリング問題をみても、行政・マスコミ・専門家の三者が一体となって世の中を仕切ってゆくありさまは、驚くばかりです。誰もが自分の生活の場から必要だと感じる発言をしてゆきたい。学会の場がそれを可能にする人のつながりと場をつくりだしつづけられるようにと願います。とりわけ「学のありかたと専門性を問う」という、古くそしていよいよ新しいテーマに、さまざまな位置でくらすかたがたとともに、向きあってゆきたいと思います。 第4期運営委員立候補声明 加藤 彰彦(横浜市立大学) 社会臨床という発想、および実践は現実の生活に密着した生き方につながる考え方で、僕にとっては大事な思考基準になっています。社会臨床学会が発足して、既に7年が経過し、今度の総会からは8年目を迎えます。これまでの活動や試行を検討し、社会臨床の内容を整理する時期ではないかと思います。ちょうど、僕が大学に赴任した時に学会が発足したので、僕にとってはどちらも総括の時期です。あまり、活動を拡大せず、じっくりと実践や論理を噛み締める時期の活動をしたいと考えています。 社臨運営委員立候補声明 佐々木 賢 昨年の初め、脊柱管狭窄症にかかり、ほとんどの会に出席せず失礼しました。今年もあまりがんばらずに、やっていきたいと思います。私にとって、この学会は心の支えですのに、気負わずに参加できるのが魅力です。 学校や教育にかかわる現象、労働市場や資格社会、大人と子ども関係の他に、老いや死の問題にも関心をもち始めました。さまざまな立場の多くの人にお会いして、話がしたいと思っています。 運営委員立候補声明 篠原 睦治(和光大学) 第4期も運営委員活動に参加したい。本学会は、臨床心理学会改革時代より、間口が広くなり、とっつき易くなったということを聞く。また、一群の専門家や研究者たちがこの学会に期待を寄せている感触を持つことがある。いずれもうれしく有り難いことと思っている。ぼくは、「医療・福祉・教育」あたりを軸に、いろんな立場、領域の人々が集まってきている現状でいいと思っているし、そのあたりで、「社会臨床」をめぐる思索を重ねながら、「学会」の姿勢と課題を探っていければと願っている。ぼくは、老若男女の関係と生老病死の人生に関わる今日的テーマを発掘しつづけたいのだが、当分の間、脳死・臓器移植など先端医療の優生思想性にこだわっていく。 運営委員立候補声明 島根 三枝子(地球屋) 現在、サポート校といわれる高校の相談員をしています。子ども達から親子・家族・教師・学校などのさまざまな問題が見えてきます。それはすべて現代の社会問題でもあります。脳死・福祉などからも社会の問題は見えてきます。どこを切り口にするかの違いだけで、根本に見え隠れするのは同じようなことだと考えます。いろいろな立場から見る社臨に参加することは、今、私の居る現場の有様をより深く広く見ることができると考えて参加しています。 第4期運営委員立候補声明 杉浦 政夫 2000年の介護保険実施を目前に、福祉・医療・社会が大きく揺れている。人間が老いると言う事が・介護がと問われている。同時に医療・社会の世界で脳死・臓器移植・体外受精等、命の取扱が問われている。人は必ず生れ死ぬ。生きると言う事、死ぬと言う事を皆さんはどう考えていますか。私はここ最近人の『生と死』について考える事が多くあります。社臨の中で考え深めていきたいと思っています。 社会臨床学会運営委員立候補声明 武田 利邦(神奈川県立商工高校) 第III期に引き続き運営委員に立候補致します。第6回総会では準備から参加し、分科会のパネリストや総会の司会をやりましたが、その後の運営委員会には十分参加できず、思い残すことがタップリあります。 教育をめぐる状況も悪くなる一方で、社臨の存在理由も大きなものがあると考えています。 個人的には、時間がいくらあっても足りない状態で十分な働きができると思えず、ここらが身の引き時だという思いもあるのですが、諸般の状況を考えてもう1期やってみようと思っています。 社会臨床学会運営委員立候補表明 竹村 洋介 鬱屈している。何が悪いと言い切れることだけではないのだが、とてつもなく息苦しい。市場経済化、"グルーバル"化がいわれる一方で、いいようのない重苦しさに取り囲まれている。ねっとりとした緩慢な終焉、滅び行くパラダイス。いったいなんなのだろうか。はっきりと言えないけれど、若い人がこの何ともいえない閉塞感を強く感じているのではないだろうか。言葉にもならないものをどうしたらいいということも簡単ではない。それでも、僕はこの時代に対峙していくことが、社会臨床学会だと考え運営委員に立候補します。 運営委員立候補声明 戸恒 香苗(東大病院) いつも悩みますが、やはり、今期も立候補することにしました。よろしくお願いいたします。 立候補声明 中島 浩籌(YMCA高等学院・河合塾COSMO) ここ数年、「教育改革」という言葉が様々な所で聞かれるようになりました。また、カウンセリングもブームのようになってしまいました。この二つの動きがからみあって、様々な問題を引きおこしています。「心の教育」という言葉が象徴的に示しているように、教育が心理主義的になりつつあり、また、「生涯教育」ということで、その教育が学校の外へと広がってもいっています。私はこういったことに疑問を感じ、考えていきたいと思っています。 社会臨床学会は、こういった問題に「教育的なまなざし」からも「心理的なまなざし」からも離れて迫っていける場です。この場が様々な問題を根底から問うていける場としてこれからもあり続けるように、少しでも役に立っていければと考えています。 社会臨床学会運営委員立候補声明 根本 俊雄(青森フリーワーカー) 青森に来て2年。暮らしのスタンスが大幅に変わりました。すると周りからは異邦人として扱われ、力ある人からはたびたび無視され、排除されます。こういった体験は2度目なのでだいぶなれました。いまは精神障害者の作業所とグループホームで昼夜活動をしていますが、青森の障害者を受け身にさせている状況を変えたいと、思わず力が入ります。運営委員として、自分の体験と社会問題をつないでいきたいと思います。 第IV期運営委員立候補声明 林 延哉 職場にリストラの風が吹き始めて、僕は、そういう事態になると「きっと僕が該当者だなぁ」と思ってしまうたちなので、気持ちが落ち着きません。同僚が土地を買ったり家を建てたりしているのを見ていても、なんでそんな先の事まで考えられるのだろう、と恐れ入ってしまいます。僕は、一度にふたつもみっつものことを考えられなくて、とてもそんなことなど考えられません。昨年の暮れ頃から、プログラムの勉強を始めました。歳のせいか覚えがわるくてだめです。最近はこれで頭が一杯です。 ですから、社臨は、僕にとって世間との接点となりつつあります。また、運営委員に立候補させていただきます。 社会臨床学会運営委員立候補声明 平井秀典(江東区塩浜福祉園) 現在、事務局のサブとして会計を担当していることと、第7回総会の実行委員長を引き受けています。今期も楽しく運営委員をやっていきたいと思い、立候補いたしま 運営委員立候補声明 古井 英雄 今迄、「する側」「される側」をテーマのひとつとして考えてきました。しかし、社臨の方々の御意見を伺っていく内に、この様な軸で考えていったのではいけないことにやっと気づき始めました。そこで今期は、「する」「される」で考えるのではなく、「シゾフェリア」とラべリングされている人々の思考と「健常者」といわれる人々の思考と同じに扱って考えるべきではないか? 言い換えてみれば、思想の自由と同じに、思考の自由もあるべきではないか? 保証されるべきではないのか? という視点で、このテーマを深めていきたいと思っております。 この視点に立って、あらためて心理学を考えてみますと、果たして心理学自体が思考の自由を阻害する要因になっていないかどうか? また、そうならば心理学と我々とのスタンスをどのように捉えていけばよいのか? も問題点として浮かび上がってきます。この延長で考えた時、出来れば、心理学にとってかわる社会臨床学的な新しい分野が開けることを期待しつつ、とりあえずは、批判をしていく社臨というよりも、新しい発想を今迄以上に提言していく社臨として発展していくにはどうしたらよいかをより具体的なレベルで話し合えればと思っております。 第4期運営委員立候補声明 古谷 一寿 第3期の運営委員を2年間やってきましたが、社臨の運営にかかわってきたという実感がいまひとつないような気がしています。そういう関わりしかで出来なかった2年間を少し反省しています。 それでも離れた場所からヤキモキしながら社臨を見ているよりは、運営委員として社臨の今後を考え合っていく方がいいかと思い、第4期の運営委員に立候補することにしました。 第4期運営委員立候補声明 三輪 寿二(東京足立病院) ああ、また、この時期が来たんだな、という思いです。この2年間は、精神医療状況のある種の「移りゆき」のために、病院の仕事が忙しく、自分の「現場」をどう把えるか、について見通しを持とうとジタバタしてきて、結局多少ついたメドがうまくない見通しです。社臨は他の領域の話を居ながらにして聞ける場なので、他領域の「移りゆき」を聞くことで、別の見通しを持とうと、第4期運営委員に立候補しようと思います。よろしくお願いします。 運営委員立候補声明 八木 晃介(花園大学) 前期、学会運営の実務にまるでタッチできなかったことを反省しつつ、篠原さんの勧誘もあって、今期再び立候補することになりました。またまた遠隔の地から声を出すだけということになりかねませんが、本学会への個人的思い入れは学会立ち上げ以来、全然変わってはおりません。学会の中心的な問題関心と少々距離のありそうな私ですが、むしろ、だからこそ役に立ちそうな場面もありそうですし、実際にもあったのではないかと思ったりして。よろしくお願いします。 運営委員立候補声明 山下 恒男 最近数年間は運営委員とは名ばかりでしたが、気持ちをあらためて再度立候補したいと思います。よろしくお願いします。 長年大学の教員をしてきていますが、今接点がある「学会」は社臨だけです。そのことの意味をもう一度考えてみたいと考えています。大学運営の末端を担う矛盾した立場ですが、大学の意味も考えてみたいと思っています。 社会臨床学会運営委員立候補声明 広瀬 隆士 今年も運営委員に立候補します! ■社臨、これからの予定 一九九九年三月二八日 社会臨床ニュース34(本紙)発送作業(子もん軒) 一九九九年四月十一日 雑誌7-1発送、運営委員会(子もん軒) 一九九九年四月二四日〜二五日 日本社会臨床学会第七回総会 編集後記 法施行後初めての移植を目的とした脳死状態の患者からの臓器摘出が行われました。相変わらず新聞を読まない、ニュースを見ない僕は、詳しいことを何も知らないままに過ごしてしまいました。それにしても、今回のドナーほど日本中の人から早く死ぬことを望まれ期待された人は居なかったのではないでしょうか。勿論、「自ら望んだこと」なのですから「他人がどうこう言うようなことではない」ですが‥‥。マスコミは、手続き議論に終始していたようですね。法が施行されてしまった今となっては、「脳死=臓器移植」についてかれらが云々出来そうなのは手続き上のあらさがし位ということだったのかしら(繰り返しますが、本当はよく知りません。新聞もニュースもあまり見ていないので)。 今号は第七回総会の予告号です。この時代、この国で、私達は何が語れ、何を語るべきなのでしょうか。(novo)