第9回総会が北海道(江別市)で開催されることになり、期待でいっぱいです。
本道の社臨の会員は、私の知る限りでは、圧倒的少数です。ほとんどいないといっても過言ではないかと思います。養護学校義務化反対の運動から20年、当事者の主体と共生を地域の中で確立する試みが、この間紆余曲折を経ながら持続されてきたにもかかわらず、残念ながら、社臨の知名度は圧倒的に低いのです。そういう意味では、本道で開催されることは非常に刺激的なことではないかと期待しています。
そこで、北海道の情況を簡単に紹介したいと思います。北海道は、過疎指定の市町村が、212市町村の内7割に達し、過疎地の高齢化率は全国平均をはるかに超えています。開発予算という公共事業に全面的に依存してきたために、この不況からの脱却が困難なこととポスト公共事業におけるまちづくりの展望がもてないことから、北海道の先行きは明るくないのが現状です。北海道キャンペーンのキャッチフレーズは、「試される大地」で、道民の自立を促していますが、なかなか公共事業による国、道への依存心を払拭することはすすんでいないように思われます。私が働いている福祉の分野では、高齢者でも障害者でも入所福祉施設の整備率が全国平均をはるかに超えており、過疎地にその多くがあるということ。一方、全国に先駆けて知的障害者のグループホームが生まれ、伊達市のように人口3万人程度のところで200人ぐらいの知的障害者が地域で生活をしているということもあり、非常に混沌としています。ちなみに高齢者の施設整備率(特別養護老人ホーム等)は沖縄県に次いで全国2位です。施設が多いのは、企業誘致と同じように施設づくりも過疎対策としてあるということも影響しています。
障害児の教育では、希望すれば地域の学校へということがある程度可能な反面、養護学校も多く、寄宿舎が併設されていることが大きな特色です。養護学校も過疎地に建設されることが多く、そのために寄宿舎が必要になっているといえます。養護学校の高等部をでてもほとんどが福祉施設へということになり、受け入れた福祉施設がグループホーム等で地域に返すというようなことが起きています。
また、北海道では、いまカウンセリングブームにあるようです。心理学が学生に人気があるということで、私学では学科、学部新設構想が目白押しです。私学の生き残り策とあいまって、非常に危うい感じがしています。民間サイドでも古くから独自の資格付与的な講習会を行っていて「カウンセラー」が多く生まれています。
養護学校義務化反対運動にかかわってきて、障害児教育の専門家と称する人々が個々の子どもとの日常的なかかわりがない中で、ある断面を一面的にとらえ、その結果一人の人間の人生を決めるようなことに加担している後ろめたさを感じない楽天さに驚いてきましたが、昨今のカウンセリングブームをみているとまったくおなじ事を感じます。そして資格社会がどんどん進行してきていることと比例して、一人の人間として向き合うことの大切さが失われてきていると思われます。
来年の総会では、こうしたことを全国から集う方々と交流できたらと期待しています。
『社会臨床ニュース』第三九号で、日本社会臨床学会第九回総会は、二〇〇一年四月二九・三〇日に札幌学院大学(北海道江別市)で行うとお伝えしました。
その後私達は、総会実行委員長井上芳保さん(会員、同大学)の助言により、札幌では、例年暖かい好天気の続く六月二三日(土)・二四日(日)に、総会日程を変更することにしましたので、訂正して、改めてお知らせいたします。
プログラムについては、井上さんや林恭裕さん(会員、北海道福祉協議会)など北海道の皆さんと考え始めています。
一つは、養護学校義務化批判や国際障害者年(一九八一 年)を経て、今日あまたで語られるようになった「ノーマライゼーション」や「共に生きる」ということの経過・現状、そしてそこでの問題や課題を考えたいと思っています。
もう一つは、「上」から「下」から語られ出している「教育改革」の現状と構造を探りながら、特に一つのキーワードとして語られている「心の教育」ということを、スクール・カウンセリング問題等とからめて討論できればと願っています。
記念講演は、花崎皋平さんにお願いしました。花崎さんは小樽に住みながら、札幌を中心にさっぽろ自由学校「遊」を企画・運営されています。いままでも、記念講演や分科会発題をお願いしましたが、このたびは札幌の地で北海道での“いま、ここ”の体験と思索を語って下さることと思います。
詳しくなっていくプログラムや宿泊先の便宜などについては、追々にお伝えしていきます。会員の皆さんが大勢参加して下さることを念じながら、開催期間変更のお知らせをいたしました。
(二〇〇〇・十一・十九)
昨今、「少年犯罪」がテレビ・新聞・雑誌等いたるところで話題にされています。教育・福祉等の問題を通して子どもたちをめぐる諸課題について討論を続けてきた社臨としても、この話題を考えようということになりました。
社臨でこの話題が最初に出されたのは、2000年の夏の合宿でした。その際には、報道・メディアによる印象操作の問題としてでした。しかし少年犯罪という言葉にはカッコが必要だという投書の話から、その後少年法「改正」等にまつわって提起される少年や被害者の「人権」を中軸にした論理の危うさという話まで、様々な角度から意見が持ち上がりました。
今回はまず、「少年犯罪」の現在を広く捉えることを目的として、世界の「少年犯罪」を視野に置きながら、この問題を考えてこられた佐々木賢さんに発題をお願いすることにしました。佐々木さんの発題主旨をお読みいただき、ぜひ多くの方々と考え合いたいと思います。
この数年、新聞や雑誌の少年に関わる記事を集めてきました。特に最近「少年犯罪」の記事が多くなり、マスコミは「心の闇」とか「十七歳の犯罪」を強調してます。
一方、「画一教育の結果だ」とか「表現能力を教えてこなかった」と主張する人もいて、行政側は教育改革を急ぎ、総合学習の導入とともに「生きる力」や「心の教育」を称え、学校カウンセラーを増やしてきました。
また、「コンビニが原因」とか「家族の空洞化」を説き、地域や家庭に原因を求める声もあります。さらに、「学歴無効の社会になった」とか「自己実現不能の社会」と原因を社会の変化に求める人もいます。逆に、「平穏な社会だからこそ起きた事件だ」という意見もあり、「加害者意識の欠落した社会」とか「少年犯罪が集団から個への移行」といった現象の説明だけをする人もいます。
十代若者の文化や気分を解説した評論もあります。「多くの若者に反学校と脱社会の気分がある」と指摘したもの、「一九九七年にキレ系マンガがファンタジーやギャグマンガを追い抜いた」と指摘するものもあります。十三歳以上を「少年」と呼ぶなと主張し、若者の一部でファシズム傾向が強くなったことを指摘した本もあります。
精神科医がマスコミに登場しています。そこでは犯罪少年を精神病と見る人と、そうではないと見る人との対立があります。前者は「親の努力の限界」や「心のケアや精神医療体制の充実」を主張します。後者は「強制入院はすべきでなかった」とのべたり、「人格障害と行為障害は精神科医が診断不能に陥っている」とのべ、医師が診断抜きでマスコミ発言することを戒めています。
少年法の論争があります。ただ、「改正」が犯罪の抑止力になりうるかという論点と、被害者感情の考慮や法廷処遇についての論点が、互いにすれ違っている感じがします。
さて、こうした様々な議論をただ見ているだけでは頭が混乱しますので、整理しなくてはなりません。この作業は困難になります。行政や教育や医療や司法や地域や家庭で「する側」と「される側」の立場が違いますし、大人と若者の意識の乖離もあり、法律や社会や心理や教育等、各分野の発想の違いもあります。情報や消費社会が人間にどう影響を与えてきたかの現状認識の差もあるからです。
そこで、今までの議論の中であまり論じられてこなかった五つの視点をだし、この五点を私なりに解釈した後に、これまでの議論を整理してみたいと思います。
第一は、「少年凶悪犯罪」は日本ばかりでなく世界中で起こっている点です。
アメリカの銃乱射事件はよく報道されましたが、ポーランドとドイツでも、連続して起こってますし、スペインやカナダにもあります。
第二は、無差別に不特定の人を殺傷する事件が一九九〇年以降に世界的に多くなっている点です。 少年の凶悪犯罪は昔からあり、特に現在が多いわけではありません。だが、一九九〇年以降のは、無差別で、一見、大人にはその理由が分からない点です。
第三は、犯人の少年たちが中流家庭の「普通」の少年だということです。貧困家庭出身者や、いわゆる落ちこぼれや、札付きの「ワル」とか非行少年ではないわけです。つまり九〇年以降に中流に何が起こったかです。
第四は、学校や教育のシステムそのものを見直すことです。学校内いじめや校内暴力や不登校や中退、それに大学生の学力低下も世界的現象です。これを「先進国特有の現象」という人もいますが、校内暴力はマラウイやヨルダンやエチオピアにもあるし、学校内いじめは中近東・アジア・アフリカにまで及んでいます。こうなっても教育が検討対象にならないのは、むしろおかしなことです。
第五は、コミュニケーション変容のことです。現在、大別して教育的・商業的・宗教的・相互的の四つのコミュニケーションが錯綜しています。この四者の勢力関係を調べてみることが肝要だと思っています。
最後に、私の立場を説明します。私が定時制高校の教師をしていた後半の十数年間、自分史と称して、生徒たちから生いたちや勉強や家庭や人間関係について語ってもらいました。十代の若者たちの意見や気分は、私にとって新鮮なものでした。というより、大人たちの考えや感じかたとの差があまりに大きいのでびっくりしました。
今、少年事件を考えるにあたって、私は自分が感じとった十代の若者の気分から出発することにします。先に示した五つの「少年凶悪事件」に関わる視点や特徴を踏まえ、十代の若者の気分から判断すると、一体どんな意見になるのでしょうか。どうかみなさん、私の意見をネタに、一緒に考えてみてください。
本紙で、選挙管理委員会は第V期学会運営委員会委員の立候補手続きを公示しています。
第IV期学会運営委員会としても、会員の皆さんがこのことに関心を寄せ、積極的に立候補して下さることを願い、次期運営委員会への参加を呼びかけさせていただきます。
さて、日本社会臨床学会は設立以来、早くも八回の総会を重ねてきましたが、二〇〇一年六月には、札幌で第九回総会を開催します。各地の皆さんのご協力に感謝しています。
学会運営委員会は、毎年の総会を積み重ねるとともに、その間に、夏の合宿、学習会・シンポジウムの開催、学会誌・紙の発行、単行本の発刊などの諸活動を企画・運営してきました。
そのなかで、第IV期運営委員会はこれまで「学校・教育」問題、「脳死・臓器移植」問題、「高齢社会と介護保険」問題、「カウンセリング」問題などを取り上げ、学会内外の皆さんとともに考えてきました。
来春早々の学習会では、若年層の犯罪が頻繁にマスコミ等で取り上げられ、それを追い風のひとつとして少年法の「改正」がなされるという状況を鑑みつつ、「『少年犯罪』・『少年犯罪報道』をどう考えてゆくか」という新たなテーマに取り組もうと企画しています。
私たちは、こうした問題に取り組みながら、教育・福祉・医療とその周辺における「理論と実践」そして「資格と専門性」を、「社会臨床」という言葉に仮託して検証し続けるという、姿勢と課題を大切にしたいと願っています。
この視点と方法については、一九九〇年当初までの日本臨床心理学会学会における二十年間にわたる学会改革時代の中で培ってきたものがひとつの土台となっています。しかし、学会に参加される会員の分野や立場も様々になってきていることもあり、対象領域をどこにするか、どこまでとするか、そこへの態度や方法、視点をどうするかなどではまだまだ確定的でなく、流動的です。それだけに、学会活動の企画、運営へは関わりがいのあるときなのかもしれません。
現在運営委員会内には、現代社会の諸問題に緊張的に関わりつつ個々の問題に対して明確な意見・態度を主張する学会にならなくてはならないのではないかという意見があります。一方では、いま、ここでそれを目指しすぎることによって、学会の場で取り組みたい、または、取り組むべきテーマや可能な議論の幅が狭められ、柔軟性のある開かれた学会になっていかないのではないかという危惧も語られています。
第V期学会運営委員会は、このような討論を続けながら、これからの学会のあり方や課題を探っていくことになります。勿論、学会諸活動に伴う事務・会計・編集・発送などの諸作業もこなしていかなければなりません。
私たち、第IV期運営委員会に関わる者たちは、このような運営委員会に、運営委員として参加して下さる会員の方が新しく何人も現れて下さることを、切に願っています。
また、現状の運営委員会活動はどうしても東京中心になってしまうのですが、遠路などの事情があって常時関わるのは困難だけれども共鳴し協力するとの気持ちを表して下さる方も、運営委員として立候補していただき、明確な“応援団”になって下さると心強いです。
学会員の皆さんには、これからも、ご協力、ご援助下さるように重ねてお願いして、筆をおきます。
(2000.12.6)
会則に基づき、二〇〇一年六月に行われる第九回総会では、役員の改選が行われます。つきましては、これに先立って運営委員の立候補を受け付けます。
会則では、本学会運営委員は会員より自主的に立候補し総会において会員の承認を受けて決定されることになっています。これに先立って、立候補の主旨を立候補声明として『社会臨床ニュース』に掲載します。
立候補される方は、立候補の主旨を四百字程度にまとめて事務局気付選挙管理委員会までお送り下さい。用紙はどのようなものでも構いませんが、お送りいただいた原稿はお返しいたしませんのでご了承下さい。〆切は二〇〇一年三月末日とします。