社会臨床ニュース 第44号 2002年6月2日 発行◆日本社会臨床学会 〒310 茨城県水戸市文京2-1-1茨城大学教育学部情報教育講座林研究室 E-Mail:rasen@ipc.ibaraki.ac.jp FAX:029-228-8314 TEL:090-3143-5988 郵便振替:00170-9-707357 銀行:みずほ銀行東陽町支店(普通)8013029 初夏の第10回総会、海辺の風のなかで、暮らしと社会の現状を考え抜こう 小沢牧子(総会実行委員長) 「ケア」なることばが氾濫する世の中です。このことばを私は好きではありません。配慮してあげるという有難そうな感じがくっついているからです。「世話(せわしない)」つまり忙しいくらいのことばで十分なのに、なぜ特別なカタカナを流行らせるのか? なにかおかしいぞ、と思ってしまいます。とりわけ「心のケア」の流行は、気持ちのわるいものです。「ケア」される(かわいそうな?)人」をたくさん必要とし、作りだしていきます。床に着く人にかかわる「臨床の場」が盛んになっていくというわけです。さらに「指導をされながらボランティアをする」というように、「されながら、する」とか「しながら、される」という事態が増えて、「される側」−「する側」という垣根が低くなり、立場の二分的なありようも、変わってきたようにみえます。そのなかで、わたしたちの暮らしや人の関係はいま、どうなっているのでしょうか。 社会臨床学会設立から10年が経ちました。この学会は、臨床心理士の国家資格化への協力に反対する立場の者たちが、臨床心理学会から脱会して作った場です。その場は、それ以前の20年間、学会改革の大きな課題のひとつであった「資格・専門性とは何か」という問いかけを引き継ぐ場でもありました。さきの表現でいえば、「する側」と「される側」の関係を追求してきたともいえます。その問いの立て方はいま、依然として、いやますます大事なものになっているように思えます。なぜなら、この問いに収斂していく問題が、時代の流れのなかで時代にベールにおおわれて見えにくくなり、しかし実はいっそう切実に、わたしたちの暮らしをとりまくようになっているからです。 この10年、教育や医療、福祉の領域は、いずれも大きな変化にさらされました。経済成長の勢いがとまり、グローバリゼーションが進行するなかで、さまざまな再編成がおこなわれてきましたし、またおこなわれつつあります。 そのなかで、今総会のシンポジウムはふたつ。学校の問題と、「場と専門性」の問題です。学校の場にはいま、どのような再編成が進行しているのでしょうか。「選択の自由」やあらたな振り分け、「危機管理」の問題に、わたしたちはどう向き合うのでしょうか。また、80年代の半ばころから、学校のそとに、ひとが自在に集まる場として増えつづけてきた「居場所」はいま、社会にひろがる「専門性」や「責任」の問題とどう対峙し、日常の関係をつくりだしているのでしょうか。多様な発題をもとに、これらの問題を考えます。また、記念講演は社会学者の石川准さんによる「現代社会と感情」という興味深いテーマです。以上の詳細については次ページからのプログラムをごらんくださり、ぜひ誘い合わせておでかけください。 江ノ島の海風に吹かれて、楽しくも充実した総会となりますように。 日本社会臨床学会第10回総会のお知らせ 日時 2002年7月6日(土)・7月7日(日) 場所 かながわ女性センター ホール (〒251-0036 神奈川県藤沢市江の島1-11-1 0466-27-2111) 交通手段 小田急線・片瀬江ノ島駅下車、徒歩15分。 東海道本線・藤沢駅から江ノ電バス「江ノ島行き」(15分)で江ノ島下車、徒歩5分。 JR大船駅から京急バス「江ノ島行き」(25分)で江ノ島下車、徒歩5分。 (初夏の江ノ島であり、藤沢の七夕祭も重なっています。近隣地区の混雑が予想されま すので電車などの交通機関の御利用をお勧め致します。) 参加費 2000円 交流会費 3000円(第1日目・希望者のみ) 宿泊案内 かながわ女性センターに宿泊可能です。ただし、29名分の確保しかありませんので、申し込み先着順となります。なお、部屋は個室ではありませんので、男女の人数内訳は申し込みの状況によって決まりますのでご了承下さい。また、センターには門限があり、午後10時を過ぎると入れなくなりますので、あらかじめご了解のうえ、お申し 込みください。 料金 バス・トイレ付2190円、バス・トイレ共同1610円(朝食は別途500円)。 その他の宿泊施設には以下のようなものがあります。いずれも江ノ島内にある宿泊施設で、お部屋は個室です。直接、お申し込み下さい。 民宿 和田屋 朝食付き4500円 0466−22−1820 小川亭 朝食付き5000円 0466−22−6782 ホテル リゾートインプラザ シングル7000円・ツイン12600円 その他のホテルなどは下記の所にお問い合わせください。 藤沢市観光協会 0466−22−4141 プログラム 7月6日(土) 11:00 受付開始 11:30〜12:30 定期総会 13:30〜17:30 シンポジウム I学校の再編成と向き合う ──子どもの再配置・学校の危機管理・教員の管理強化── 発題者:中島浩籌、木村俊彦、内藤順子、岡山輝明 司会:阿木幸男、原田牧雄 18:30〜20:30 交流会(同センター2階 第3会議室) 7月7日(日) 10:00〜14:30 シンポジウム II「場」と「専門性」をめぐって ──日常の関係性を問い直す── 発題者:小沢牧子、篠原睦治、西野博之 司会:戸恒香苗、武田利邦 (シンポジウムIIでは、12:00〜13:00を昼食休憩とします) 15:00〜16:30 記念講演 現代社会と感情 石川准 シンポジウム I 学校の再編成と向き合う ──子どもの再配置、学校の危機管理、教員の管理強化── 文部科学省がすすめてきた「教育改革」が実際に教育現場に何をもたらし、また、今後どういう事態を引き起こそうとしているのか、中島、木村、岡山、内藤、4氏の発題を元に掘りさげて考えてみたい。 特殊教育に関わる学校教育法施行令の一部「改訂」、学校の統廃合、子どもの再配置、学校への危機管理、システムの浸透、教員への管理強化などを生み出している実態を検証する。現場の教員の声を聞いたり、さまざまなマスコミの学校レポートを読むと、子どもたちにとって、教員にとって、ますます息苦しい状況が進んでいるようにしか、思えない。 学校現場、その周辺で起きていることから、「学校の再編成」のもつ意味・問題について討論したいと思う。 (阿木幸男) 学校の危機管理  中島浩籌 大阪池田小学校の事件以来、危機管理意識が学校でも高まっている。教育委員会によってマニュアルが作られているところもある。この危機管理意識やマニュアルは生徒や教職員にどのような影響を与えるのだろうか。 岡山県のマニュアルでは、学校外の人による危害や地震などの被害にどう対応するのか、という問題だけでなく、生徒の不登校への対応や教職員のメンタルヘルスも危機管理の対象となっており、危機の予測や未然防止の取り組みも重視されている。不登校や教職員の悩みも危機ととらえられているのだ。早期発見や早期対応が必要とされ、専門機関との連携も強調される。 このようなマニュアルのもとでは、生徒達の持ち込む悩みや「問題」を前にして、教職員があれこれ悩み右往左往するといった姿は消えていってしまうのかもしれない。生徒は早めに専門家にゆだねられ、様々な機関へと仕分けられていってしまうだろう。 勿論、こういった動きは今にはじまるものではない。80年代に強まりはじめた学校の「心理主義化」の動きとともに、生徒の心が「不健全」な方向へと逸脱するのを早めに発見しようとする予防テクノロジーも学校に浸透しつつある。この動きは危機管理意識の高まりと相まって「健全」「安全」といった曖昧な概念の肥大化を生んでいるのである。 総会では、こういった問題をより具体的に考えていけたらと思っている。そしてこの状況変化はどんな意味をもっているのか、学校という場、あるいはその周辺の教育の場にどんな問題を生じさせていくのか、皆さんと一緒に考えていけたらと願っている。 「公立小学校」の役割が問われている今、現場では… 内藤順子(神奈川県大和市立大和東小学校) 今学校現場では、様々な混乱が起きているようである。「ようである」と書くのは、わたしの周りではっきりとした形では見えないことが多いからである。しかし、確実にそれはとまどいであったり、怒りであったり…「結局いつも上からの改革はこんなものさ」と思っていた者にも少なからず影響を与え始めているように思われる。しかも、この混乱に対処できるような自分たち自身の「共通の軸」はなかなか見いだせそうもない。 「教育改革の目玉」として登場した「総合的な学習の時間」と「基礎基本の徹底」という内容になんの疑問も持たず、ひたすら教育委員会から伝達される内容に忠実に従い、「実践」してきた学校は、その後の文部科学省の揺らぎを一身に受けることになった。例えば「総合学習は体験が大事」「総合では、情報、国際、環境」というふれこみをうのみにしていたが、その後教育委員会の言い方は文部科学省の振り子のゆれを受け強調するところが変わってきたのを、真っ向から受けることになったのである。振り子は「基礎基本の徹底」という方向に急展開してきたからである。この急な舵取りが最初から計算されていたものなのかどうかは分からない。しかし、今、学校は確実に「基礎学力」をつけ、昨今の保護者への「説明責任」を果たすためにも「結果」が求められている。 私自身は「体験重視の総合学習」には疑問を持っていた。もっといえば、現場の私にとって「改革の必然性」はそもそも、まったくなかったし、「今回の改革」もまたしても「経済界」の要求から出発しているものに他ならないと思っていたから、「学校」では「今までの良さを大事にしたい事」を軸にすえるべきと主張してきた。 「公立学校の再編」は、「有能な者に手厚く投資」し「可能性のない者には最低限の投資」ですますという本質が、すでに見えていたからである。「公立学校」は地域、いや、校区に住む子ども達みんなのものである。そこを絶対にはずしてはいけないのだ。だから、「おもしろければ…とか、体験ありき…」とかに組みすることはできなくなった。「学力は学校にいるすべての子につけるべきである」と。「公立学校の役割」は、「基礎学力の獲得」と「社会を生きる場」だと。そしてこの二つの事柄は同時に進行することであり、分けられて語られるものではないと。「学校」を生きる。「学校」で生きる。つまり、子ども達と私達にとって「学校空間」は、「私達の生きる時間」の「共有の場」だと。 しかし、「基礎学力の徹底論」は今、私達が大切にしたい質とは違う形で「財界の本質」をあらわにしてきている。「少人数」で「学力」をつける指導法の改善は、「子ども達」の分断を加速度的におしすすめているからだ。このことをどうやってくい止めることができるのか。そのための「軸」はどこにすえられるのか。 私のなかでは「答え」がある。それは「分けずに」「共同で考え、体験し合い」その結果それぞれの子ども達が「獲得」することの時間と空間の共有の場としての「公立学校」にこだわることであると。 都立高校改革と管理強化 岡山 輝明(都立定時制高校教員) 今、国会では「有事法案」の審議が始まろうとしている。いつでも戦争できる準備が着々と整えられている訳である。この政治の動きと90年代後半からの全国的な教育改革の動きは、決して別々のものではない。改革に先行するかのように押し進められた「日の丸・君が代」の強制が、これを端的に表している。 この10年余り、都立高校では入学式卒業式の度に、職員会議で如何に議論を重ね多数の職員が反対しようと、校長は高圧的にあるいは苦悩しながら日の丸掲揚の実態を作り出してきた。今やそれどころか、何事によらず職員会議は「校長の補助機関」であり、「校長の意思決定を拘束するものではない」と位置づけられている。校長のリーダーシップと言えば聞こえはいいか。しかし実際には教育委員会の上意下達機関としての立場が圧倒的に強化されているのである。現場からどんな声が上がろうと、日の丸・君が代と同じく言われた通りやらせるのが管理職の仕事となった訳である。さらに畳み掛けて「人事考課制度」「授業観察」等々が次々と持ち込まれてきた。「指導力不足教員」を摘み出す仕組みもセットされている。教頭に次ぐ管理職として「主幹」職も導入される。教職員を序列化し、授業に至るまでチェックし、意に添わぬ教員は排除も可能としたのである。 こうした管理強化と併行して97年以降、「都立高校改革推進計画」が進行してきた。一方に進学重視を掲げたエリート校、他方に夜間定時制高校を整理統合したチャレンジスクール、間に就職から進学まで幅広く対応できる単位制・総合学科など、高校の再配置を意図するものである。学区制の撤廃とも相まって、高校間に細かな序列を付けずにはおかない。これは不平等が拡大した保護者の社会階層を反映するであろう。全体を貫く「単位制」の組織原理は従来のクラスや学年を解体し、生徒同士、教職員同士、生徒と教職員との関係を希薄化する。勢い学校運営は校長・教頭・主幹、授業とクラブ活動は一般教員、相談ごとはカウンセラーといった具合に、ほぼ全てをカバーしてきた教員の職業的領域が解体される。結局、仲間から切り離されて生徒も教員も競争関係に投げ込まれ、ひたすら「自助努力・自己管理」が求められることになるのである。 教育改革は、一人ひとりの興味関心に基づいて学びたいことが学べるかのような「個性尊重」の幻想を振り撒いている。しかし、おいしい言葉の裏側にあるのは「競争の賛美」である。その一方で、文部省・教育委員会が「日の丸・君が代」だけは決して譲らないことを注視する必要がある。孤立した生徒の内面を、個別的にはカウンセリング、全体的には国家意識の強調を通して管理に乗り出していると見なければならない。「お国のために」命さえ厭わぬ人間を生みだそうとしているのである。近代の始まりにおいて、「国民皆学」が「国民皆兵」と共に立ち上がった歴史を省みれば、もしかしたら学校教育はその「本来の在り方」に回帰していると受け止めるべきかも知れない。 21世紀にいよいよ進む分離教育 木村俊彦(キャベツの会) 1979年から93年に退職するまでの14年間、養護学校で教員をしていました。養護学校の授業は課題別という名の能力別編成になっており、「発達保障」という考え方がその根底にあります。発達年齢1歳半と判断されると、小学校6年生でも中学校でも、まるで保育園の子どもに対するような授業が行われます。人間から「関係」を剥ぎ取り、個体の「発達」を専門家が保障するという図式の下、分けられた養護学校でさらに分けられ、結局は1対1の指導に行き着くのが特殊教育なんだと実感してきました。 昨年度「21世紀の特殊教育の在り方に関する調査協力者会議」の報告を受けて、文部科学省は今年4月に学校教育法施行令及び施行規則の改定を行いました。市町村教育委員会の判断を前提に、特例として普通学級就学を認めると言いつつも、原則はあくまでも分離教育の踏襲であり、就学基準を更に細かく規定すらしています。養護学校義務化から22年、「きめ細かな手厚い」特殊教育で「自立と社会参加」へつながったのか、そんな実態調査すら行わず、相変わらず抽象的な特殊教育幻想をふりまきながら、21世紀へ分離教育をつなげようとしています。 バブルが崩壊し、環境破壊と疲弊した心が後に残りました。高齢化社会を目前に社会の在り様を根本的に問い直さなければならないこの時期に、なおかつこれまでの能力主義を更に推し進めようとしているのが、今回の施行令改訂であり、この動きは教育改革国民会議の報告や教育課程審議会答申とも歩調を合わせて出されていることに、強い危惧を抱かざるを得ません。これからの時代に求められているのは「人を蹴落とす能力」ではなく「人と共に生きる知恵」です。共に生きるための知恵を、人として社会としてどう蓄積していくかが今問われています。 共に育つことなくして、共に生きる社会はあり得ません。競争社会をその末端で支えてきた「特殊教育」の現状と、そこから生み出された社会の実態を、まずは明らかにしていく必要があるのではないでしょうか。 キャベツの会 埼玉県新座市を中心に、ともに学び、働き、暮らすことを願う人々の柔らかなネットワークと情報 交換を続けて23年になる。季刊で「キャベツの会ニュース」を発行。定例で編集会議、共育懇談会、共育研究会、重度障害者の職場参加を考える研究プロジェクト、介助勉強会などを行っている。 学校教育法施行令改訂問題  「盲・聾・養護学校に就学すべき障害の程度に関する基準の改定」と「就学手続きの改定」 がある。前者は医学や科学技術の進歩を踏まえ、小・中学校に就学してもよい範囲が 広がったとされ、後者は前者の基準に該当していても、市町村教育委員会が認定する 特別の事情がある場合は小・中学校に就学してもよいというものである。  また、これまで通達で示していた「障害の種類・程度等の判断」のための「就学指導委員 会」を「専門家に対する意見聴取」として新たに施行令に規定している。障害を理由に、 あなたの行くべき学校はこちらですと、国が決めつける分離教育そのことへの問題意 識はかけらもない。 シンポジウム II 「場」と「専門性」をめぐって ──日常の関係を問い直す── 70年代から、上下関係を作らずに、対等の立場で人々が集う事のできる様々な「場」が地域にできていった。しかし、この数年その「場」の根っこを揺るがすような動きが、外から内から押し寄せているという。小沢、篠原、西野のお三方に、今、「場」をめぐって何が起きていているのかを語っていただく。 人が集まればトラブルが起きるのは当然であり、お互いに本音でぶつかり、どう乗り越えていくかが、私達にとって「場」がもう一つ存在する理由だった。一方、「生きやすいもう一つの場を作る事」の危険、「場にたまってしまう事」の危険に気づきながら、それにからめ取られないようにとやって来た。今その「場」で「資格」、「専門性」や「責任」の所在がはっきりしないと人は落ち着けなくなっている。そこを人々が拠り所にしていった時、「場」はただの利用するだけの、サービス機関でしかなくなる。「昔」、人々は「貧しい」が故に人との関係を気にし合っていたし、また仕方なく切ったりもしていた。「今」、私達は何をもって人との関係をつなげたり、切ったりしていこうとするのか。「資格」「専門性」や「責任」にその「場」を取り仕切ってもらった方がきっと「楽」なのだと思う。その時私達が手放してしまうものは何かを是非考え合いたい。(戸恒香苗) 心理主義の氾濫の中で暮らしはどうなっているか 小沢牧子 「みんなと違う者は、別の場所に分ける」というのが、とりわけ60~70年代に当然の考え方とされていた。「知恵遅れ」は特殊学校・養護学校に、「登校拒否」は相談機関や病院に、「精神疾患」は主に人里はなれた精神科病院に分けられて、そこに心理テストや心理治療・カウンセリングが、振り分けを正当化する専門的技法として介在した。私たちは、これらの技法とその背景にある人間観を問い直してきたが、それは、旧臨床心理学会から社会臨床学会への流れの中の柱のひとつであった。「分け分けられることなく共に生きる、それをはばむ専門性を問う」が、分けることに対抗する思想と研究、実践だった。 しかし、国家・行政側が「共生の社会」という言葉を使いはじめ、「心の時代」をキーワードとした新しい国家の形が仕掛けられる80年代半ばの頃から、「専門性」の様子が変わってきた。「心の専門性」への社会の関心が社会に広がり、「心」への関心を強めるムードが生まれた。心理主義化社会の出現である。「本物の専門家」たちは、「資格」を持つ者だけが住める閉ざされた新しい塔を作った。「何事も個人の心次第」という世間のムードの高まりは、特に90年代に入って、大きな「心の市場」を支えた。心の傷、癒し、「本当の自分」や自分探し、カウンセリング願望、「心のケア」、アダルトチルドレンやPTSDといった新たな「心の診断名」などが日常に浸透してきた。 「みんなと違う者は、別の場に分ける」という強制力に抗して、80年代後半から専門性や資格の介在しない対等な関係による人の集まりが出来はじめ、それらはいつのまにか「居場所」と呼ばれるようになった。87年から所沢で「バクの会」に関わってきた滝谷美佐保さんは、「専門性とか責任とか言えば言うほど、人を分断していく」(『子どもとゆく』173号)と言っている。しかし、人の自在な集まりである「居場所」もいま、専門性や資格、責任の話題と無縁ではないと聞く。子ども・若者の居場所のひとつを支えてきた西野さんたちのお話を聞きながら、「場」とは何かの問いを含めて私たちの日常関係を丹念に見直し、これからの道筋を考えあいたい。 居場所に求められる専門性、問われる責任とは何か                    西野博之(フリースペースたまりば)   川崎市の多摩川のほとりで「場」を開いて、今年で12年目になる。もともとは、不登校の子どもとその親を中心としてスタートしたが、その当初から、「来たいと思う人は誰でも」という線は崩さずにきた。近頃では、年齢の幅も広がり、5、6歳から30代半ばくらいの人を中心に、160名あまりの登録者数になる。1日に利用する人だけでも、平均して30人を超える。特に「知的障碍」「精神障碍」などとラベリングされる人たちの中で、18歳を超えてから行き場を持たない人たちが訪ねてくるケースも増えてきている。専門的なケアや治療を施す場ではなく、オルタナティブな教育をする場でもない。好きなときに来て、過ごしたいように過ごす、というスタイルは一貫して変わっていない。こんな「居場所」づくりも、社会的認知の広がりと共に、内部から変化の兆しがあらわれてきた。 世間を騒がすような少年犯罪が数多く報道される今日、何の資格も専門的知識ももたずに「誰でもどうぞ」と間口を広げていていいのか。場の中に安全は保たれるのか。もしものことが起きたときに誰がどう責任をとるつもりなのか。こういった声がスタッフや、一部の親の中でわき起こってきたのだ。メンタルクリニック等で開かれる「援助者」のための研修などに通い始めた彼らの目には、場の中はますます「危険」にうつっていく。「体の大きい人がパニックになったとき、取り押さえられる体力のある大人が何人か必要なんじゃないか」といった声まで親の会であがってくる。今まで傷つき傷つけ合っても一緒に生きていこうよという目線を大事にして作りあってきた場なのに、「素人が関わってはいけない。自分たちの力量・限界を超えている」「誰もが安心してすごせる場にするために、(またその人自身のためにも、)別の機関に行ってもらったほうがいい」という話へと進んでいく。体のいい「排除」の論理が展開される。自分たちが日常の関係の中で経験してきたこと、そこで培われてきた勘(感)はどこかに押しやられていく。起きてもいないことをあれこれ心配するのではなく、ことが起きたときに、それぞれのベストをつくして対処していこうと腹を決めて、信頼関係を築いていくことが大事なのではないのか。 行政もこぞって「居場所づくり」をすすめている今日、大きな転機にさしかかろうとしている。居場所に求められている専門性とはなんなのか。そこで問われる責任とは。共に考えあうきっかけとしたい。   「普通であたりまえな関係」とは何か 篠原睦治(和光大学) ぼくは、三十代前半まで、それまで勉強していた臨床心理学的知識や技術を活用して、障害児の心理診断や心理治療、そして、親たちの教育相談をしていた。その中で、親子の「共生・共学」の願いに出会いつつ、専門的知識・技術の操作性・管理性に気づき、それらが、隔離・分断の合理化に寄与していることを知った。ぼくは、「する」側から降りて、「される」側と一緒に考えようと思った。「教育相談の公開と共同化」ということだが、それが、三十年ほど前に呼びかけた子供問題研究会であり、そこでの「教育を考える会」である。それは、いまも続いている。 当時、ぼくたちは、特殊学級入級や就学猶予・免除を拒否して、「地域の学校」へ行こうとすることを「普通に」とか「あたりまえに」とかと表現していた。その頃、それらの表現には迫力があった。また、専門家・非専門家、「する」側・「される」側の階層的で片側交通的な関係を解体して、相互的で対等な関係をつくろうと考えた。こんな中で、「共に生きる」「共に考える」ことが模索されてきた。 三十年を振り返って、いろいろなことが思い起こされる。例えば、世間は、ぼくたちの場をボランティア集団とみなすことがある。「障害者」のための「善意の集団」ということなのだろうか。その途端に、「障害者」は対象となり、この外に置かれる。とても変な見られ方だが、この見方は根強くある。 大井川の上流で、毎夏、五泊六日の合宿を行うが、「障害児と健常児の共生キャンプ」と見なされて、ボランティアを志望してくる若者がいれば、どの規模・程度のボランティアがいるのか、ボランティア保険に入っているのかといった質問をしてくる親たちがいる。 ぼくたちは、こもん軒という定食やを営業しているが、福祉作業所にしないで有限会社にした。世間で言う「障害者」もいるが、彼らもそうでない者も同一の賃金で働いている。最近では、遅配が起こっているが、この不利益も平等に降りかかっている。 こうして、ぼくたちは、「障害者」、「ボランティア」、「介護」、「福祉」などの概念、イメージ、制度を基本的、感覚的に嫌っているし、拒否している。概して言えば、せめぎ合いがあって煩瑣なことがある「普通であたりまえの」日常関係にずっとこだわっている。そこに矛盾はないのか、迷いはないのか、問題はないのか。今度のシンポジウムでは、その辺りを正直かつ丁寧に振り返ってみたい。 記念講演 現代社会と感情 石川准(静岡県立大学国際関係学部) かつて感情は、環境の変化をすばやく認知してすかさず反応するための仕組み、センサーと行動の引き金と考えられていました。 しかし、本当に、感情の働きはそれだけでしょうか。 喜びや幸福感に満たされるのは、私たちに感情があるからです。悲しみとか寂しさ、悔恨に苛まれたりするのもやはり感情があるからです。時として、感情はとても危険なものであって、激しい悲しみや喪失感、怒りや嫉妬を抱いてしまうと、しばしば人は自分をコントロールすることが難しくなってしまいます。下手をすると自己破壊や他者への暴力を引き起こす、危険なものでもあります。 しかし、私たちは否応なく感情と付き合っていかなければなりません。また、感情というものがあるから生きているという実感を持つことができるという面もあると思います。 一方で感情は、人間の人間たる本質的な特徴のひとつとしてむしろ肯定的に語られることもあるのですが──たとえば人間とアンドロイドやサイボーグの違い──、他方、感情というものに対する蔑視もあったと思います。特に近代社会で、感情は理性と対置され公共領域から閉め出されてきたという面があります。そして私的領域、プライベートな領域に閉じこめられてきました。その結果、女性やマイノリティには「感情的」というレッテルが貼られてきました。 しかし、公共領域における感情蔑視とは裏腹に、近代社会は感情を商品とし、感情を生み出す労働すなわち「感情労働」を要求する社会でもあります。 感情労働の大衆化により、人の感情への態度は両義的なものになってきました。私が抱いた感情は、私自身に発するものなのか、それとも社会が私に期待し、私はその期待に従って感じただけなのか、自然なものなのか社会的なものなのか誰もよくわからなくなってきたように思われます。 講演では、現代社会において感情はどのようなものとしてあるのか、それを少し丁寧に考えてみたいと思います。 石川准さんの紹介 第10回総会の記念講演は石川准さんにお願いした。石川准さんは学会設立当初からの会員であり、総会シンポジウムや合宿学習会で何度か発題者となっていただいているのでご存じの方も多いと思う。 石川さんはいくつかのテーマにかかわって発言し行動されている。「障害者」に関するテーマ(『障害学への招待──社会、文化、ディスアビリティ』明石書店)、アイデンティティをめぐる問題(『アイデンティティ・ゲーム──存在証明の社会学』新評論、『人はなぜ認められたいのか──アイデンティティ依存の社会学』旬報社)、そして感情労働に関する議論(『カウンセリング・幻想と現実』日本社会臨床学会編 現代書館)などである。 今回は感情労働に関するテーマでお話いただく。現代は感情を売り買いする時代であり、カウンセラーをはじめとした感情を管理する労働が重要な役割を果たす社会である。そこでは感情はどのようなものとなっているのか、労働はどうなっているのか。石川さんのお話を伺えるのが楽しみである。(中島浩籌) 新会員名簿を作成します! 今期において、新しい会員名簿を作成します。総会後に発刊予定の『社会臨床雑誌』10巻1号に、名簿掲載事項の確認のための葉書を同封します。また、葉書の記入要領は、同号に掲載いたしますので、それをお読みいただき、ご返送下さいますようお願いいたします。 編集後記 いよいよ総会も近付いてまいりました。しかし総会の前には難敵が控えています。そうです、ワールドカップです。この一か月は、このニュースの作成を終えたら完全にワールドカップに漬かります(いや、もう実はどっぷり漬かっていて、情報収集などで連日大変です)。 今年の総会は風光明媚な江ノ島で開催します。先日開場の下見に行った時は、おいしい魚介類を食してきました。その魚介類を求めて、女性センターの前の公園には猫が溢れていました(本当の理由は、わざわざ江ノ島まできて捨てていく人が多いとのことです)。 その公園にはカラスも多く飛来していて、そのツーショットは異様な光景でした。また、近くにはヨットハーバーもあり、マリンスポーツも楽しめそうです(社臨にはそんな人いない!?)。藤沢駅周辺では同時期、七夕祭りが開催されていますし、対岸には水族園もありますので、お子さんと一緒に参加されるのもよろしいかと思います。もちろん、女性センターのある江ノ島巡りも一興かと思います。 「裏の」総会へのお誘いはこの辺にして、会計について一言。 財政的に多少厳しくなっています。会費の値上げを避けるためにも会費をきちんと納入していただき、新たな会員を増やしていただけるよう、皆様にご協力をお願いします。(平井秀典)