社会臨床ニュース 第45号 2002年10月20日 発行◆日本社会臨床学会 〒310-8512 茨城県水戸市文京2-1-1茨城大学教育学部情報教育講座林研究室 E-Mail:shakai_rinsho@yahoo.co.jp :029-228-8314 :090-3143-5988 郵便振替:00170-9-707357 銀行:みずほ銀行東陽町支店(普通)8013029 第10回総会を終えて 中島浩籌(社会臨床学会運営委員長) 第10回総会は、実行委員長の小沢牧子さん、副委員長の平井秀典さん、そして地元にお住まいの浪川新子さんなどを中心とした尽力もあって、盛況のうちに終えることができました。当初は日程が7月にずれ込んだこと、会場を2日間確保することに苦労したことなど、不安もあったのですが、多くの方が参加され、活発な討論・問題提起がなされ、実りある総会になりました。参加人数はのべ129名です。初日の夜に行われた交流会には50名の方が参加されました。初めて総会に参加された方も多数お見えになり、いろいろな話を伺うことができ、大変楽しい交流会となりました。 今回の総会は第10回ということでした。ということは、社会臨床学会が設立してから10年目の年を迎えているということです。この10年間に、私たちを取り囲む状況は大きく変化しました。「心の専門家」の学校導入計画が本格化し、「心の教育」もはじまっています。7億円かけた「心のノート」が全小中学生に配布されるという事態もおきているのです。このように、社会の様々な場面に「心のケア」や「心の専門家」という言葉が浸透してきているわけですが、それだけに、「心の専門性」への疑問も広がってきているように思います。私たちが提起してきた問題に関心を寄せる人たちに出会う機会も多くなりました。ただ、こういった状況にどう対応するのかということを考えると、様々な新しい問題が浮かび上がってきていることも事実です。 その意味で、この10年間を振り返ってみることも大事なことなのかもしれません。今という状況とのかかわりで、どのような問題が論争され、提起されてきたのかを整理していく。この作業は学会活動を新たな状況へと開いていくためにも必要なことではないでしょうか。 今度の総会は10年を記念したものではありませんでしたが、臨床心理学会や社会臨床学会がかつて提起していた問題と現在の状況とのかかわりを問う意見がいくつか出され、議論も行われました(詳細は『社会臨床雑誌』に掲載予定の総会報告を参照してください)。今回の総会をはじめ、これまでの総会や学習会などで行われた論争等を、今という視点で捉え返し、新たな問題へと備えていく、そういう作業も学会活動の一つとして行っていければと思っています。第10回総会での様々な人との出会いや、多くの議論に立ち会って、そういう思いを強くしています。 第10回総会感想集 シンポジウム 「場」と「専門性」をめぐって……に参加して 秋本まち子(練馬区在住) 3つのことを書いてみます。お互いに全く関連性がないかもしれません。 一つ目は、当日会場で私が質問したことで、西野さんの答えが今ひとつ私には届かなくて、残ったままです。くり返しになりますが、私の質問は、「たまり場のスタッフや親たちの中から資格や専門性が必要ではないかという声が出てきていることと、たまり場がその実績を認められる形で行政からお金が出るようになったこととは関係があるような気がする」という、かなり思いつきのものでした。 「お金がほしくて申請したわけではない」というような答えだったと思います。一般的には、どこの居場所も自腹を切りつつ経済的にはかなりギリギリのところでやってきているというのが私の認識だったので、彼の答えは意外でした。 その後の話が私にはよく聞き取れなかったので(これには理由があります)、誤解があるかもしれませんが、私自身の経験(ごく小さな規模ですが、同じく子どもの居場所に同じくらい関わってきた)で言えば、行政と関わりを持つ(特に、金がらみで)ということには、かなりムダな労力がつきまとうものという感じをもってきました。そのムダは労力の中に、責任体制を整えるというような意味合いで資格とか専門性が入ってくるスキが出てくるのではないかという疑問が残ったままです。多分、それの裏返しとでも言えばよいのか、私たちのやってきた場でも、スタッフ会議などでよく「私たちはただのオバサンだから(この後に多分、何の責任もとれない、というコトバが続くらしい)」という発言があって気になってきたところでした。うまく表現できませんが、司会の戸恒さんが言ったように、「プロでも責任はとれない」ような難しい状況の中で、人と人との関わりの中で生じる責任とは何なのか、もう少し時間をかけて話し合いたいテーマです。 そして、二つ目は、シンポジウムの中身とは直接かかわりのないことですが、ちょっと気になったので書かせてもらいます。私の質問の途中からとなりの席に移ってきて、話している間中ブエンリョにこちらをジロジロ見て、その上答えを聞いているのに話しかけてきた人がいたことです。「アトにして下さい」と言っているのに、名刺まで押しつけられて、「ここに電話を下さい」と言われ、心底驚いてしまいました。誰に言えばよいのかわかりませんが、なんとかしていただきたいと言いたいです。 三つ目は、篠原さんにしたかった質問です。「場」との関わりで西野さんの話を聞いてみようと思って参加したのですが、午前中の3人のお話を聞いているうちに、意外にも今の私にとって一番切実な問題提起は、篠原さんから出たのでした。確か、一番最後の方で話された「車イス生活で(障害をもって)ふつうにあたりまえに地域で生きていくということは突出したことだ」と言った友人の天野クンのお話です。たまたま2年程前に、右脚が不自由になって外を自由に歩けなくなった私ですが、これまでは娘や友人たちに助けられ、何とか一時しのぎの生活をしてきました。しかし、この状態が長期化し、治るみこみもシカとは持てないとなると、果たしてこのままの態勢でやっていけるのかどうか。周りの人の個人的な好意のみに頼って生活していくというのもなかなかしんどいことになってきて、どうしたものかなー、と考えあぐねていた矢先だったので、身につまるお話でした。本当は、この問題をじっくりと深めてみたいと思って、午後の話し合いに臨んだのに。なかなかうまくコトバにならず、思いつきの別の質問になってしまって、ちょっと心残りです。しかし、ああした大きな会場で、多人数で話をじっくり深めていくということ自体が、もともとムリがあるのかもしれませんね。 参加して、母親として感じたこと 南雲和子 7月6・7日、日本社会臨床学会第10回総会に参加させて頂きました。新潟県上越市で暮らす、南雲和子と申します。 「全国不登校新聞創刊100号記念集会」で、小沢さんの「『心の専門家』はいらない」の講演をお聴きしたおりに、「社会臨床ニュース」第44号をいただき、この総会のことを知りました。 『「心の専門家」はいらない』を読み、「『心の専門家』はいらない」の講演を聴いて、小沢牧子ファンになりたての私は、地元である魅力的な集会をパスして、江ノ島まで、小沢さんを追いかけたのです。もちろん「社会臨床ニュース」第44号に掲載されている、発題者の方たちのご意見に共感したからでもあります。 私には娘がいます。小学校5年生のとき、いじめに遭いクラスメートから疎外され弧立する状況が続きました。それでも小学生のうちは五月雨的に学校にいきましたが、中学校に入り夏休みが過ぎた頃からまったく学校に行かなくなりこの7月に20歳になりました。 娘が学校に行かなかった体験が、我が家の居間を解放して毎週水曜日に「じゃがいも」というステキな名前の居場所を開くことに繋がりました。学校に行かない子どもたちと親たちと娘と私で、水曜日を楽しい日として過ごすようになって3年が過ぎました。ですから「場」をめぐってのテーマもたいへん興味がありました。 前書きがとても長くなってしまいましたが、シンポジウム氓ナ膨らませていった私の思いがペシャンコになり、場違いな所に来てしまった、このような「学校ありき」の話を聞きに来たのではないと後悔の念に駆られました。 特に小学校の教員の「すべての子どもに校区内の公立学校で、基礎学力と社会性を獲得させたい」旨の、ゆるぎないパンチの効いた発言に打ちのめされました。 私を含めて学校に行かなかった子どもを持つ親たちは、この小学校の教員のようなパターナリズムのもとに、とてもとても苦しい思いを強いられました。 ただ子どもが学校に行かないというだけで、子殺しや心中を考えた親も、少なくないことをご存じないのでしょうか。ただ子どもが学校に行かないというだけで、地域で友人と思っていた人たちが、瞬く間に私たち親子の前から去り、親戚付き合いにも距離が出来ました。 ただ子どもが学校に行かないというだけで、親子ともどもいつの間にか弧立させられることもご存じでの発言だったのでしょうか。134,000人の学校に行かない子どもは、学齢期の子どもの1%だからはっきりとした形で見えてないのでしょうか。 娘の同級生の、伊藤準(ひさし)君は、中学校1年の11月27日に、いじめを苦に自殺してしまいましたが、私の娘は、学校に行かなかったので今も生きているのです。 伊藤くんの、いじめ自殺裁判でも「いじめの期間が1か月と短期間なので、学校はいじめを発見出来なかった」と、「普通であたりまえ」でない判決で「学校」が守られてしまう現実もあるのです。 学校がつらい場であったり、合わないと感じている人は、学校と距離を取ることが、「普通であたりまえのこと」と考えます。小学校の教員の言われる基礎学力と社会性の概念がはっきりしませんが、権力にとって都合のよい基礎学力と社会性と、私には伝わってきます。 居場所「じゃがいも」に来る子どもの人は、今、自分に必要なことを日常生活に沿っていわゆる「普通であたりまえのこと」として、知識も社会性も自ら獲得しているように思います。 「夏、オーバーを着て学校に来た」人のことは、如何な方向に進んだのでしょうか。当然この学会で、事例として大勢の人の前で話されていることを、当事者の方たちはご存じないのでしょうね。もし、我が家に関わった教員が、私たちに断りもなしに、娘の学校に行かなかったことを、事例として語られたらイヤですから・・・。 フロアーからの「学校を潰せば・・・」の発言に、養護学校を辞めたり、高校を辞めたりした発題者の歯切れのよい発言が欲しかったと思いました。 「専門性」という言葉をぐるぐると巡る「無責任」な感想と質問 栗田隆子 社会臨床学会に入って4年ほど経っていましたが、今回はいつにもまして、「無責任」な聴衆として、聞きに行こうと思って参加しました。そうしたら、とても疲れたんですね。特に疲れを感じたのは、「専門性」という言葉を考えた時だったんですね。となると、今からの話は、二日目の10時から開かれたシンポジウムの感想が中心になります。その「疲れ」の理由のひとつは、自分の関心をまず脇において、ただ、ただ、語られる言葉を忠実に聞こうとしたから。そういう意味では、この疲労はポジティブな側面があります。 ところで、さっきいった「自分の関心を脇において」っていう意味は、わたし個人が「専門性」って事柄に関心がさほどあったわけではないのです。だけど、そういう関心のないことを聞いていられたその理由は、この学会は「専門性」という言葉を巡って人々が集まって、そして考える場所だと思ったから、です。そして、いきなり結論めいているけれど、それがこの学会の社会に対して立っている位置なんじゃないのかって思ったから。 まず、この学会の歴史を振り返ると、臨床心理士の「国家資格化」をめぐって、臨床心理学会っていうところから分かれてつくったものであるからして、この学会に参加して、まず考えることは「専門性」とりわけ、心理学や教育学や医療における「専門性」についてだ、とまず単純に思ったわけです。 だから、そこでまず確認したいのは、この「資格化」がおかしい思って、臨床心理学会を抜けた人々は、医療や心理学、教育の領域で「専門家」といわれる人達だった、といことです。であるならば、その人達の立っている位置は現在も、「人からは専門家と呼ばれる位置」です。この部分は間違っていませんよね? それが、まずこの学会を色づける特徴だと思うのです。 ということであるならば、会員のとりわけ設立者たちは、自らの「専門性」と、例えば、臨床心理士という資格に象徴される「専門性」という言葉の「関係」を一旦、言語化していくことは、重要だと思います。なぜ言語化しなければいけないのか? それは「『学』会だから」と、まず、そういう学会であるならば、「専門家である私が専門性を問うとはいったいなにごとなのか?」という内容の論文があってもおかしくないと思いました。 だから、まず、この学会誌のなかで、そういう論文がもしあったら、教えていただけたら、ありがたいのです。 また、もう一つ、「する―される」という言葉にはこの学会の専門性が生み出す関係を表現しているものとして使われていることが多いと思いますが、その、「する―される」の関係が存在する一方で、この「する―される」っていう関係を「相対化」しないとまずいじゃない? という気持ちが湧いてくるだけの「前提」を専門家であったからこそ持ってしまった、という側面もあるのではないでしょうか(これは逆は必ずしも真ではありません。すなわち、専門家だからその前提を持つ、ということはありません)。ですから、その「前提」すなわち、専門家として生きていて、どういうところに「する―される」の硬直した関係に限界を感じたのか、具体的な事例を通して書いてある文章を教えていただけたらありがたいと思います。     先日の社会臨床学会に参加して 広瀬香織 先日(7月上旬)の社会臨床学会総会に参加させていただきました、広瀬と申します。 貴学会への参加は初めてだったのですが、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。 わたしは臨床心理士として足掛け8年間、精神科で仕事をしてきた者ですが、皆様方のご批判も含め、さまざまなお話を伺う中で、改めて自分の仕事について考えさせられましたし、新しい発見もいくつかありました。 いろいろ思うところはあって、ぜひ感想を伝えたいと思ったのですが、遠方から来ていたこともあって早早に帰らねばならず、それが先日は実現しませんでした。 感想は、たくさんあるのですが(笑)、端的に少しだけ伝えさせてください。 一つは、あの場で言われていたほど、臨床心理士として仕事をしている人たちは、専門家が心の問題を取り仕切ることをよいとも思っていないし、専門家以外に心の問題をまかせられないとも思っていない、ということです。少なくとも、私を含め、私の周りで仕事をしている人たちはおおむねそうです。 もう一つは、それでも心の専門家は要る、ということです。 私は、専門家との出会いは、心の問題に触れていく「糸口」「入り口」に過ぎないと思っております。本当にそのことに関わったり解決したり支えたりしていくのは、その人自身や、その人の身の周りにいる人たちであり、専門家が抱え込んでケアするものではないと思っています。 しかし、そういう自助・互助機能が働きにくくなった現代では、とりあえず「糸口」「入り口」としての専門家がいるのは悪くないというか、それはそれで意味があると思います。 私も、あの学会の場で語られていた「旧式の」臨床心理士のあり方に疑問を持ちつづけており、それゆえに、貴学会に惹かれ、参加させていただきました。 今30歳代より年少の臨床心理士というのは、それまでの複雑な経緯も知らないまま、「心の問題にかかわるのなら臨床心理士しかない」と思い込んで(思い込まされて?)この道に入っている人が多いと思います。そして、現場に入っていろいろ疑問は持ちながらも、入ってしまったら他を見る余裕もなく、ただひたすらその道を猛進しているといったところでしょうか。 学会当日に議論されていたような問題は、臨床心理士とて抱いている疑問だと思います。 しかし、それにしても、今、世間でもてはやされている「心のケア」、そしてその代表者であるがごとく取りざたされている「臨床心理士」の陰に、地道にたゆまぬ努力をされている多くの方々がいらっしゃるということを、今まで振り返ることもなかった自分の傲慢さを恥じ、未熟さを思い知った次第です。 私は現在は、臨床の現場を一旦離れ、教職に就いております。心の問題や対人関係に興味を持つ学生は多く、これまでの臨床経験から自分が考えたことを、講義の中でこの一年話していくうちに、自分のなかで「心の問題に関わるってどういうことなのだろう?」「専門家って何なんだろう?」という疑問がどんどん大きくなっていきました。 そんな折り、小沢牧子さんの『心の専門家はいらない』という本に出会い、むさぼるように読み、矢も楯もたまらず今回の学会に参加させていただいた次第です。 以上、好きなことを書かせていただきました。 失礼であったならばお許しください。 長文にお付き合いくださいましてありがとうございました。 貴学会の今後のますますのご発展を祈念いたしております。 ・事務局より 事務局のE-mailアドレスが変わりました。 shakai_rinsho@yahoo.co.jp です。よろしくお願いします。 ・第11回社会臨床学会総会のお知らせ 2003年4月26〜27日(土・日) 皇學館大学(三重県名張市) を予定しています。 秋の合宿学習会 今回のテーマは、皇學館大学(三重県名張市)で4月26〜27日に開催予定の第11回総会を意識したものとなります。今のところシンポジウムとして計画されているテーマが2つあります。一つは「『支援』ばやり、それで大丈夫か?」(仮)です。「子ども」「障害児・者」などに対する「支援」の必要性が叫ばれ、「支援」の充実がさかんに言われるようになりました。この「支援」という理念そのものを、また「支援ばやり」の状況を、現実に生きあう関係の中から考え、問うていこうというのが一つのテーマとなります。 このテーマなど、三重で考えてきたこと・三重総会で考えたいことについて大野光彦さん(皇學館大学)、脇田愉司さん(三重県庁健康福祉部)に合宿に来ていただき、お話いただきます。 もう一つは、「臨床心理を問う」(仮)というテーマです。教育の場では「心のノート」などが配られ、スクールカウンセラーも配置され、臨床心理的見方が浸透しはじめています。そこで、主に教育の場から臨床心理を問うていくというテーマを三重総会で取り上げていく予定となっています。 合宿では、このテーマに関して三輪寿二さん(茨城大学)にお話していただきます。 真鶴の合宿では、もう一本テーマを用意しています。「社臨10年を振り返って」というテーマです。今年は社臨が出来て10年目にあたりますが、この間様々な議論が展開されてきました。社臨のメンバー各自がどのような議論に触発され、どう考えてきたのか、その点について話し合っていきたいと思っています。今回は中島浩籌(社臨運営委員長)が発題者となります。 今年の秋の合宿ではこの三つのテーマを考え、来年4月開催予定の三重総会につなげていきたいと思います。皆さん、ぜひ御参加ください。 テーマと発題者 「三重で考えてきたこと・三重総会で考えたいこと」大野光彦(皇學館大学)、脇田愉司(三重県庁健康福祉部) 「道徳教育と臨床心理」三輪寿二(茨城大学) 「社臨10年を振り返って」中島浩籌(社臨運営委員長)