はじめに(1)
企業的な社会、セラピー的な社会(2)
発題:教育私企業化の意味(53)
討論(66)
グローバル経済とは何か? 〜デビッド・コーテン『グローバル経済という怪物』を下敷きに〜(85)
ただニワトリを殺すだけでいいのか 〜鳥インフルエンザ問題を考える(109)
特別支援教育が進む学校のなかで(119)
〈討論〉「不登校」をめぐって(122)
暮らしの中でのコミュニケーションやことばの再考 〜『バケツ』『無敵のハンディキャップ』を授業で使用する中で〜(131)
ある無認可保育園のゆくえ(134)
行くも地獄・戻るも地獄の自己決定 〜『地獄少女』の映し出す今〜(138)
日本社会臨床学会第15回総会のご案内表紙裏
編集後記142
誤 | 正 | |
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p.63左 下より4行目 | 本多由紀 | 本田由紀 |
p.64左 9行目 | 改行削除 | |
p.122右 注(2)1行目 | 国立小児病院心理室 | 国立小児病院心理検査室 |
p.130左 下より17行目 | p.2 | p.123 |
p.130右 7行目 | p.6 | p.127 |
いま、2006年度最後の号、14巻3号をお届けする。
佐々木賢さんは、14巻1号で「教育の私企業化」を論じたが、これを受けて、2006年秋には、「グローバリズムと教育私企業化」のテーマで、合宿学習会を企画した。発題は、佐々木さんだったが、討論もじっくりできた。本誌では、その報告をしている。ここでは不十分にしか論じられなかった「グローバリズムのなかで進行する、それを支える心性操作」については、やはり佐々木さんが、15回総会の「記念講演」という形で問題提起することになっている。当日のシンポジウムII「教育とグローバリズム」は、これら一連の提起と討論の中で設定されている。本誌の報告も、総会での討論への助走的役割を果たせればと願っている。
上記テーマと深く関わることになったが、小沢健二さんの「企業的な社会、セラピー的な社会」および原田牧雄さんの「グローバル経済とは何か? 〜デビッド・コーテン『グローバル経済という怪物』を下敷きに」という労作を掲載することができた。
小沢さんは、アメリカ合衆国で暮らしながら、南米ほかの各地を訪ねて、体験と思索を重ねておられるが、今回は、「企業的な社会」では、気づかれないで人々の心をたくみに操る「セラピー的な社会」になっていることを物語風に活写している。原田さんは、D.コーテンを闘読しながら、グローバル経済の進行するアメリカ社会を紹介し、そこに、現代日本の姿そのものを反省的に見つめようとしている。
佐々木さん、小沢さん、原田さん、三人ともが、「グローバル経済」というマクロな課題・問題に接近しながら、同時に、そこで作られる私たちの「心性」の虚実を見詰め、そこから解放されていく道筋を探っている。
いま、マスコミは「鳥インフルエンザ問題」をセンセーショナルに報じている。明峯哲夫さんは、「ただニワトリを殺すだけでいいのか」と問い、人間社会の、ニワトリなど動物たちとの関係を問い直している。なお、明峯さんは、1巻3号から4回にわたって、「人間と農」を論じている。
渡部千代美さんは、「特別支援教育」が進む学校から、子どもたちが細かく分けられていく様子を報告しつつ、「特別支援教育」でよいのかと問うている。なお、「特別支援教育」の現実と問題については、皇學館大学(三重県名張市)で開催された第11回総会のシンポジウムI「『支援』ばやり、これで大丈夫か」(11巻2号)以降、本誌でも、教育基本法「改正」、発達障害者支援法などを議論しながら、それらと関連して、折々に考えてきた。
山岸竜治さん、篠原睦治さん、中島浩籌さんの「不登校」をめぐる討論は、山岸さんの「不登校理解=原因論の変節に関する一考察〜小泉英二に照準して」(13巻3号)に触発されて行われたが、「学校」とは何か、という、古くて新しい議論になっている。
〈ここの場所から〉欄で、崎原秀樹さんは、北島行徳の書いた小説『バケツ」などをテキストに、「障害児臨床心理学」の授業をしたことを振り返っている。浪川新子さんは、ある無認可保育所での子どもたちの様子を描きながら、「無認可」のゆくえを考えている。
〈映画や本で考える〉欄では、林延哉さんが、近年放映されたアニメ『地獄少女』を鑑賞しながら、「自己決定」ということを思索している。これからも、この二つの欄を楽しんでいただきたいし、これらの欄へも、気楽にご投稿いただければありがたいと改めてお願いしたい。
表紙裏には、第15回総会のお知らせを載せた。それまでに、総会への誘いの思いも込めて、4月には15巻1号をお届けする。どうぞ、お楽しみに。(2007/02/10)