はじめに(1)
シリーズ「社会臨床の視界」(全四巻)刊行にあたって(2)
管理栄養士と現代の「食」〜ヘルシズムと医療化の視点から〜(4)
優生思想の源と大衆文化としての優生思想〜ジョセフィン・ショウ・ローウエルと『ジューク家』と『あしながおじさん』〜(38)
“偶発”的解体、“偶発”的連帯(上)〜1988「埼玉県庁知事室占拠事件」における非ー同一性〜(51)
学校内外で「つながる」ことの重要性とその課題〜スクールソーシャルワーク活動から〜(58)
ウィトゲンシュタイン瞥見〜精神分析的言説のフィルターを外すために〜(66)
灰色とは何か(72)
「企業的な社会、セラピー的な社会」についての覚え書き(77)
現実に根ざした言葉(79)
『教育と格差社会』から(83)
日本はなぜ社会学の流行る国になったのか〜「社会分析神経症」の時代〜(86)
日本社会臨床学会第16回総会のご案内表紙裏
編集後記(89)
新年を迎えた。昨年末には、15巻2号をお届けしたが、そこには、昨春の第15回総会の報告を掲載した。いまは、第16回総会(6月14日・15日 東京八王子セミナーハウス)のために本格的な準備が始まっている。この総会は、「社会臨床の視界」(全四巻 現代書館)刊行を記念しても行うが、そのためにも、このシリーズは、一刻も早く交換されなくてはならない。いま、校正作業に大わらわである。
そんななか、15巻3号をお届けする。今号には、総会や学習会の記録は載っていない。その意味でも、論文、エッセイが中心になった。
小椋優子さんは、佐々木賢さんの『教育と格差社会』を読み込んで、(佐々木さんが指摘している)社会に瀰漫する「存在不安」を、人々の暮らし(特に労働)の諸相で確かめながら、思索している。浪川新子さんは、森真一さんの『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』を読みながら、世の中を「社会学」的に理解することの魅力に惹かれながらも、世の中を「社会学」的に対象化してしまうことに問題はないかと問うている。
石川達也さん、林延哉さん、中島浩籌さんは、小沢健二さんの「企業的な社会、セラピー的な社会」(本誌14巻3号)を読んでいるが、石川さんは、この論文が取り組む「灰色が作り出す世界の現実」の「灰色」とは、どんなイメージか、正体かを探っている。その正体は人間世界特有の「所有」ということかもしれないと見当をつけながらも、さらに確かめ続ける思索を重ねている。林さんのは、小沢さんが南アメリカなどに出入りすることで体験している民衆パワーの希望に着目して、そのように生きえない、日本社会の逼塞感を自問しながら、本文を味読していく。中島さんは、小沢さんの「問題は現実の中にある、具体的なことだ。」に終始着目して、それに対応する分かりやすい、迫力ある言葉を紡ぎだすこととはどのようにすることかを、自己の体験の中で反芻している。
さて、今号では、五本の論文を載せることができた。梶原公子さんは、現代の「食」を管理する管理栄養士の仕事に着目しながら、そこに託される「食」は、ヘルシズム(健康至上主義)になっていて、医学・医療の範囲に閉じ込められつつあると、評論している。秋葉聰さんは、アメリカ国民のなかに瀰漫するタイ主文化としての優生思想に着目し、それらを扱った作品の起源をたどるフィールドワークをしながら、報告し論じている。猪瀬浩平さんは、地域の普通高校へ入ろうとする障害児側の運動に家族のひとりとして関わりながら、そこでの障害者と非障害者、親と障害者自身のせめぎ合いを描き、各自のアイデンティティを越え合っていく過程を対象化しようとしている。これは、三回連載の予定である。金澤ますみさんは、学校で生起する子どもの問題を学校内(または学級内)のこkととして進めがちな学校の現実に、スクール・ソーシャルワーカーとして関わりながら、その外とつながりつつ解くことを提案しているが、その報告である。原田牧雄さんは、哲学者ウィトゲンシュタインを読みながら、彼の「端的で確実な知覚」などに着目して、言語相対主義的、心理主義的な認識を排することの重要性を指摘していくが、それは、世の中の諸相を精神分析的に読み解こうとする今日的傾向に対する警告になっている。
どこからでも、読んでいただきたい。そして、あちこちへと飛びながら読み継がれていくことを願っている。そして、ご意見、ご感想をお寄せくださると最高である。(2008/01/23)