社会臨床雑誌第13巻第1号(2005-06-19発行)

はじめに(日本社会臨床学会編集委員会)(1)

〈論文〉

アメリカの優生運動研究ノート(II) 『カリカック家』の批判的考察(秋葉聰)(2)

サイコバブル社会における「ことばの教育」の必要性(中井孝章)(31)

社会臨床学会はどのような場なのか?(林延哉・中島浩籌)(40)

〈「映画と本」で考える〉

『子どもの〈心の危機〉はほんとうか?』を読んで(川英友)(53)

戦前の日本におけるシュタイナー受容について学ぶ:河西善治『京都学派の誕生とシュタイナー』(林延哉)(59)

罪はどこにあるのか、あるいは誰が罪を許すのか:『りすか』『空の境界』『DEATH NOTE』 (林延哉)(62)

編集後記(102)

はじめに

日本社会臨床学会編集委員会

表紙の目次をご覧になって、「あれ?」と思われた方がいらっしゃるかもしれません。日本社会臨床学会第13回総会が4月9日・10日に東京の北区滝野川会館で開かれ、この時期に『社会臨床雑誌』が発刊されると、総会報告号と思われる方々が多いだろうと思うからです。これまでは、総会に先立ち、各巻の第1号を発刊してきましたから当然のことだと思います。

一つには、各巻1号は、巻数の関係で、新年度に入ってから発刊するのがいわば慣わしとなっていますが、今回は、総会が例年より早く開かれたので、総会の前に新巻を出すことが難しいということがありました。もう一つは、『社会臨床雑誌』第12巻3号の内容が第13回総会のそれと重なるものであったためです。総会への連続性を意識すると、むしろ本号は総会後の方が望ましいのではないかと判断しました。これらの事情から、本号がこの時期に発刊されたという次第です。総会については、本誌第12巻2号でご報告いたしますので、しばらくお待ち下さい。

さて、本号には、まず、2本の論文があります。秋葉聰論文「アメリカ優生運動研究ノート(II) 『カリカック家』の批判的考察」は前号からの連載論文の第2回目です。有名なゴッダードの『カリカック家』をめぐる論考です。その研究が優生思想的な動きに合流することで評価を受けていくことを、その運動の欺𥈞性や問題性を浮き彫りにしながら批判的に論じています。中井孝章論文「サイコバブル社会における『ことばの教育』の必要性」は、竹内芳郎の言語階層化理論による文学表現の分析にそって、現在の教育の中に文学の言葉を組み込んでいく必要性を論じています。この必要性の指摘の背景には、サイコバブル社会の影響による、文学表現と似て非なる若者の感情表現の氾濫という問題意識があります。

そして、林延哉・中島浩籌の対談「社会臨床学会はどのような場なのか?」があります。本誌11巻1号の中島論文「社会臨床学会10年をめぐって」に対する林さんの応答がきっかけになったものです。学会設立10年を契機に、学会のこれまで、これから、そしていまを考え合いたい、と思いながら、なかなかに果たせなかったのですが、本対談を契機に、学会をめぐる議論が活発になることを期待したいと思います。

〈「映画と本」で考える〉には3本の文章が寄せられています。川英友さんは、小沢牧子編著『子どもの〈心の危機〉はほんとうか?』(教育開発研究所, 2003年)所収のいくつかの論文をめぐって論考しています。また、林延哉さんが二つの文章を書いています。一つは「戦前の日本におけるシュタイナー受容について学ぶ」と題して、河西善治著『京都学派の誕生とシュタイナー』(論創社, 2004年)から、もう一つは「誰が罪を許すのか」と題して、『りすか』、『空の境界』、『DEATH NOTE』の三つの小説や漫画を読み解きながら、社会規範のパーソナル化を指摘しています。

また、本誌では、文末に執筆者のプロフィール(現在の関心事、著作等の宣伝等を含めて)を書くスペースを設けていますが、これについて十分にお知らせしていませんでした。400字程度までなら掲載可能と思われますので(紙幅との関係で字数をご相談する場合はあると思いますが)、会員相互の交流のためにもご活用頂けたら、と思います。